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カテゴリ:さいたま市西区の石仏
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西遊馬、高城寺から北へ見てゆきます。 旧龍蔵寺跡墓地 西区西遊馬987南[地図] 大宮武蔵野高校の東にある本村自治会館から100mほど南東のT字路の角に旧龍蔵寺跡墓地があった。北と西に工場、墓地の裏には田畑が広がっている。墓地の道路沿いに二基の石塔が立っていた。 左 庚申塔 享保10(1725)四角い台の上、宝珠を乗せた唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。 とぐろを巻いた蛇を頭に乗せ、口をへの字に三眼忿怒相の青面金剛。持物は矛・法輪・弓・矢。彫りは細かく力強い。 青面金剛の足元、磐座の上に異相の邪鬼。青面金剛に負けずに怖い顔ですごむ。大きな三猿が台の正面に彫られていた。 塔の右側面 天下泰平 國土安全。その下中央に供養塔、右に願主、左に遊馬本村。 左側面に造立年月日。下部に8名の名前が刻まれている。 右 地蔵菩薩塔 宝永3(1706)四角い台、角柱型の石塔の上に蓮台に立つ地蔵菩薩像。白カビは多いが大きな欠損もなく彫りも比較的きれいに残っていた。 角柱型の石塔の正面「念佛講中 」その下に右から遊馬村 女中 施主。両脇に造立年月日が刻まれている。 墓地の奥、後ろの建物の前に卵塔などの石塔が並んでいる。その多くは僧侶の墓石だった。 右端 無食供養塔 寛保3(1743)角柱型の石塔の正面に「無食供養佛」下部両脇に造立年月日。塔の上の敷茄子の正面に梵字「カ」今は敷茄子の上には何もないが、丸彫りの地蔵菩薩立像がのっていたものと思われる。無食供養塔(むじきくようとう)は珍しい石塔だが、西区の一部では結構見ることができた。以前も書いたが、見沼区新堤でおなじような石塔「不食供養塔」を見たことがある。 塔の左側面は無銘。右側面に遊馬本村 二十八人。 ひとつおいて念仏供養塔 文化11(1814)角柱型の石塔のしょうめんに「念佛講中」上に丸い石がのっていて、先の「無食供養塔」と似た雰囲気。やはり地蔵菩薩などの石仏が乗っていたのだろうが、こちらは敷茄子から上がそっくり失われていた。 右側面に造立年月日。下のほうに薄くセハ人と見えるが、名前は読み取れない。 左側面 武刕足立郡遊馬本村 善男女。近くに本村自治会館があり、このあたりが遊馬本村だったようだ。 上サ自治会館裏 西区西遊馬1443[地図] 大宮武蔵野高校の入口から県道2号線方面へ300mほど進むと、道路左側、八幡神社と同じ敷地内に上サ自治会館が立っていた。 自治会館の南、防災倉庫の陰に瓦ぶきの小堂がひっそりと立っている。 小堂の中、左に庚申塔 宝暦7(1757)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に青面金剛立像 合掌型六臂。日月雲は縁の上部両脇に彫られていた。 像の上半身には白カビが多い。三つに分けて結われた髪の真ん中に見えるのは蛇だろうか?持物は矛・法輪・弓・矢。 足の両脇に二鶏を半浮き彫り。足元の邪鬼は丸々としてユーモラス。その下に両脇が内を向く三猿が彫られていた。 塔の右側面に造立年月日。左側面 天下泰平 國土安穏、万民快樂 家内安全。その下に講中 本村 笠中と見えるが笠とはなんだろう? 中央 十三仏供養塔 宝暦2(1752)隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に十三仏を文字であらわす。前に朱色の賽銭箱があって、塔を正面から写すのは難しい。右の縁の部分に造立年月日が刻まれていた。 塔の最上部に、「虚空蔵」その下に三段、一段目に「勢至」「阿弥陀」「阿閦」「大日」二段目に「地蔵」「弥勒」「薬師」「観音」三段目に「不動」「釈迦」「文殊」「普賢」全部で十三仏。 下部に願主遊馬村とあり四名の名前。最後に女中と刻まれている。 右 地蔵菩薩塔 正徳5(1715)細長い顔立ちの丸彫りの地蔵菩薩像。 厚い台形の敷茄子の正面中央に「念佛講女中」両脇に造立年月日。右端に足立郡、左端に施主 遊馬村。 敷茄子の右側面に八名の名前。左側面にも八名の名前が刻まれていた。 十三仏供養塔の後ろ、庚申塔と地蔵菩薩塔の台に挟まれるように無食供養塔 延享3(1746)反花付き角柱型の石塔の正面に「無食供養佛」両脇に造立年月日。右下に遊馬村。塔の上には穴があいていて、やはり上には石仏が乗っていたのだろう。珍しいはずの無食供養塔だが、今回は相次いで見ることができた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.12.30 05:10:56
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