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カテゴリ:さいたま市西区の石仏
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県道2号線から北へ入り、川越線までの地域に移ります。今日は二ヶ所の石仏を見てみましょう。 熊野神社前 西区指扇1819-13[地図] 県道2号線、NTTの鉄塔近くの交差点から北へ向かう。すぐ先のコープの脇の細い道に入って道なりに進んでゆくと妙光寺の入口にでる。手前を右折して少し行くと道路左手奥に熊野神社があり、鳥居の左手前に石塔が立っていた。後ろに丸いタンクが写っているが、このあたり一帯は大きな酒造会社の敷地になっていて、妙光寺の前を右折した道は、その広い敷地の東を通って北へ抜けてゆく。 庚申塔 宝永2(1705)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。ごく一部に白カビが見られるが、彫りはきれいに残っていて全体に美しい。 目を吊り上げた忿怒相の青面金剛。顔の下半分が削れていた。像の右脇に造立年月日。左脇に武刕足立郡指扇子下泣村。10年前、指扇の中に該当する村はみつからないとしたが、酒井さんの「石仏ノート」を見ると、この部分は「下郷村」とされていてなるほどと納得した。「泣」と見えたのが本当は「江」で、上の点と縦棒は傷!下江→しもごう→下郷で、下郷村が正解らしい。あとからTATSUさんのブログをみたらやはり下江=下郷となっていた。気が付かなかったのはどうやら私だけだったようだ。 足元に邪鬼と二鶏は見当たらず正面向きに座る三猿だけが彫られていた。その下の部分に10名の名前が刻まれている。 旧華蔵寺墓地 西区指扇3481西[地図] 酒造会社の東を通り北へ向かい、突き当りを左折、道なりに西へ200mほど進むと道路左側に大きな墓地があった。道から少し入った先の入口からのぞくと、墓地は東西に広がっていて、入口近くに小さな堂宇が立っている。 お堂の右手前に二基の石塔が南向きに並んでいた。 右 庚申塔 享保15(1730)板碑型石塔の正面を彫りくぼめた中「奉待庚申供養塚」両脇に造立年月日。このあたり薄く白カビがあり、全体に靄がかかったような状態で銘の細かい字は読みにくい。 「・・・塚」の下、中央に施主 花蔵寺とあり、その両脇にそれぞれ四名、その下に十名、さらにその下に八名の名前が刻まれていて施主26名になる。右縁下部には増永村 大西村 大木戸村と刻まれていた。 塔の最下部にしっかりとした三猿。両脇が内を向いて座るが、左の言は猿は頭を反らして顔だけを正面に向けている。 左 一字一石供養塔 安永9(1780)大きな四角い台の上に四角い蓮台を重ね、その上に二臂の如意輪観音坐像。この石塔は経文の一字を一石に記して土中に埋めた供養塔で、特に江戸時代に多く建てられたということだ。 観音像は四角い蓮台に直接乗っているのではなく、別に台を設けその上に座っていた。よく見るとこの台は観音像と同じ石から彫りだされていて、像と台とがワンセットで蓮台に乗る形、これはあまり見たことがない構成で珍しいと思う。光背右脇「法華一字一石供養塔」左脇に造立年月日。法華経の字数は全部で7万近くなるという。それだけの数の石がこの石塔の下にうめられているのだろうか?足元の台の部分の正面に、願主 華蔵寺住 権律師 善根敬白と刻まれていた。 一番下の大きな四角い台の正面右上に施主とあり、大西村、増永村、大木戸村、男女 貳拾一人、下郷村、宗兵衛、さらに念佛講中、弟子左中(?)と刻まれていた 墓地の奥に進むと、左手のブロック塀の前に舟形光背型の六地蔵菩薩塔 安永2(1773)が北向きに並んでいる。サイズは六体よく訴追っているが、右から2番目の光背だけが形が違っていた。後から補われたものかと思ったが、銘を見て見ると内容も文字の感じも他の五基と変わらない。 光背右脇に造立年月日。左脇に大木戸村 増永村 大西村。三つの村の人たちが一緒に造立したものらしい。 さらに墓地の奥に進むと、左手に大きな舟形光背の地蔵菩薩塔が立っていた。写真後ろ左側に酒造会社のタンクが写っている。 無食供養塔 延享元年(1744)赤羽根神宮寺跡に続いてこれが西区で四基目の無食供養塔。舟形光背にバランスの良い地蔵菩薩立像を浮き彫り。一部に白カビが多く見られるが欠損はない。光背右脇に「無食供養」その下に大西村 増永村。左脇に造立年月日が刻まれていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.12.29 11:06:22
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