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カテゴリ:さいたま市西区の石仏
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指扇の最終回、旧華蔵寺墓地周辺三か所の石仏です。 旧華蔵寺墓地北西路傍 西区指扇3529南[地図] 旧華蔵寺墓地の北の道を西に進むと、墓地の敷地の切れたあたりに小堂が立っていた。 小堂の中 庚申塔 文化12(1815)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。 頭上に蛇を乗せた青面金剛。右上手に矛ではなく斧を持つ。馬頭観音などで時々見かけたような気がするが、青面金剛ではかなり珍しいのではないだろうか。 ショケラは腰にすがりつく。足元の邪鬼は不敵な笑みを浮かべて正面をにらみつけていた。 下の台の正面に三猿。風化のために溶けだしている。ここだけ色が変わっているのはセメントで補修したものだろうか?構図が非常にユニークで、右端の見猿は後ろ向きに頭を垂れて座り、まるで鬼ごっこのオニのよう。「もういーかい?」あとの二猿は遠目には様子が分かりにくい。 左の聞か猿は右手で左耳をふさぎ左手で体を支え、右足を立てて左足は伸ばし外を向いて座っていた。くつろいで横になった女性のようなポーズ。 中央の言わ猿。上が丸まった背中でその左に折り曲げた右足、下の丸い部分が頭部で両手を口に当てている。このようなポーズの猿はいままで見たことがない。自由奔放な三猿、もしかしたら岩槻系の石工さんの仕事だろうか? 塔の右側面に造立年月日。その下に大西 世話人とあり三名の名前。 左側面にも大木戸、増永からそれぞれ三名に名前が刻まれていた。三つの村が力を合わせてこの庚申塔を造立したのだろう。 旧華蔵寺墓地西住宅 西区指扇3329南[地図] 上の庚申塔から西へ250mほど、住宅の塀の間に小堂が西向きに立っていた。 庚申塔。隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「庚申塔」側面は見ることができず造立年など詳細は不明。 塔の下部、小堂の横木に隠れるように小さな三猿が彫られている。 旧華蔵寺墓地北三差路 西区指扇3506東[地図] 旧華蔵寺墓地に行くときに使った酒造会社の東を通る道。T字路を左折してすぐ先を斜め右に入って北へ100mほど進むと三差路に石塔が立っていた。写真左の細い道が酒造会社から北上してきた道。右の道は東に進み大塚古墳から南下する道と合流して県道2号線へ、ここから写真上のほうに進むと川越線の踏切を越えて西大宮に入り、中郷薬師堂の入口の前にでる。 大乗妙典六十六部供養塔 正徳4(1714)この供養塔はなぜか酒井さんの「郷土の石佛」に記載がなく、今回旧華蔵寺墓地あたりから中郷薬師堂へ行こうとしてたまたま通りかかってこの石塔に気が付いた。 四角い台の上の角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「バク」の下に「奉納大乗妙典六十六部供養成就攸」上部両脇に天下泰平 國土安穏。なかほど両脇に四國西國 秩父坂東。右下に武刕指扇領増永村。左下に願主 増永□實□□□□。こちらが行者だろうか?塔の最下部右下の縁の部分に施主 増永□右衛門と刻まれている。 塔の右側面に造立年月日。その下に銘があるが、ここのところ晴れの日が続き逆光で写真が撮りにくい。 指扇の多くの村の名前が並ぶ。今まで見てきた中で判断してみるが読み間違いもあるかもしれない。右から別所村、五味貝戸村、赤羽村、大西村、下江村、臺村、大木戸村。 塔の左側面下部。右から土屋村、遊馬村、同本村、下宝来村、上宝来村、佐知川村、阿弥陀寺村、法願寺村。左右両面合わせて15村。 塔の下の四角い台の各面にも多くの人たちの名前が刻まれていた。二段に分かれているがよく見ると、上が姓、下が名のようだ。こちらの写真は右側面で、ざっと二十数名になる。 正面と左側面にも同じように二十数名の名前が刻まれていた。 台の裏面には右端あたりに四名の名前。台のほうは四面合わせて約70名ほどになる。台の上の塔の両側面には15の村名が刻まれていたが、裏面には右端に大木戸村とあり五名の名前、続いて大西村とあり十一名の名前、さらに□□村とあり、三名の名前。結論としてはこの供養塔は増永村の願主のもと、近隣の多くの村から総勢100名近い人たちが協力して造立したということになる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.12.31 21:34:52
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