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カテゴリ:さいたま市西区の石仏
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今日は二カ所の石仏ですが、初めの指扇駅前郵便局は住居表示が西遊馬でした。同じブロックの武蔵野銀行はじめ他の住居が皆宝来だったので勘違いしてしまい、遅まきながら今回宝来のコーナーで一緒に取り上げることにしました。 指扇駅前郵便局脇 西区西遊馬1269[地図] JR川越線の最扇駅南口から西に向かうとすぐ右手に郵便局がある。その右脇に五基の馬頭観音塔が並んでいた。 右端 馬頭観音塔 昭和3(1928)駒型の石塔の正面に「馬頭観・・・」塔の下部は全体に損傷、銘の部分は剥落。塔の左側面に造立年月日。その横には個人名が刻まれている。 右から2番目 馬頭観音塔 大正12(1923)駒型の石塔の正面「馬頭觀世音」両脇に紀年銘。馬の命日か?塔の左側面にも同じように紀年銘がある。さらに施主とあり二名の名前が刻まれていた。 3番目 馬頭観音塔?全体に風化が進み、塔の正面に薄く銘が見えるがまったく読み取れない。造立年月日など詳細は不明。真ん中あたりに穴があいているがこれはなんだろう? 塔の上部を舟形光背の形に削りだし、その前に坐像を浮き彫り。合掌した手がふっくらしていて馬口印のように見える。像全体が摩耗、顔の様子もわからないが、馬頭観音の可能性が高いと思う。 塔の右側面 東 あきばみち、南 よの江戸ミち。 塔の左側面に□□導師 高城禅寺の僧名、奥に北おいふくろ 川ごへ。道標になっている。 4番目 馬頭観音塔 明治38(1905)駒型の石塔の正面「軍馬觀世音□□」その横に「馬頭觀□□□」下半分は風化のために銘は確定できない。「軍馬」と「馬頭」を並べて供養した珍しい石塔である。「軍馬」は日露戦争で駆り出された馬だろうか?両脇に紀年銘。この場合命日かもしれない。 塔の左側面に昭和2年の紀年銘。これは何を意味するのか?明治38年に亡くなった二頭の馬の供養塔を25年後に建立というのもおかしいし・・・奥に馬宮村大字□□。 左端 馬頭観音塔。駒型の石塔の正面「馬頭観音」右脇に此の方よの道。左脇にも同じような銘が見えるが読み取れなかった。 塔の右側面 此の方 あきば □□方。うまく読めないが平方だろうか。 こちら左側面。此の方□□り、川ごえ?紀年銘は確認できないが、道標になっていて江戸時代末期あたりの造立か?ここの馬頭観音群はたまたま見つけたもので、参考資料がなく銘の読み取りは今後の課題としたい。 西部環境センター南住宅前 西区宝来190[地図] 西部環境センターの500mほど南、長屋門のある住宅の入口左のブロック塀の前に石祠と石塔が並んでいた。現場は公道から畑の中の私道に入って門の前まで、50mほど私有地を通ることになる。この日は撮影の許可をいただいて取材することができた。 左 弁財天塔 明和8(1771)石祠の正面に「弁財天」台に多くの名前が刻まれている。 右側面に造立年月日。その右下に峯岸村。左下に別當 善福寺。 左側面には講中とあり、上宝来、貝塚村、峯岸村、辻村、本江、領家。貝塚、本江(上野本郷)、領家(平方領家)は上尾市。近隣7つの村の名前が刻まれていた。 右 庚申塔 大きな片岩に「庚申」銘は見当たらず、造立年など詳細は不明。「庚」と「申」の間に断裂跡がある。 門の東の松の木の下に馬頭観音塔 大正6(1917)が立っていた。隅丸角柱型の石塔の正面に「馬頭觀世音」施主は個人名。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.01.08 20:51:55
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