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私家版 さいたまの石仏

私家版 さいたまの石仏

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☆いたやま☆

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自転車とカメラが趣味で、気軽に写真を撮っています。
お地蔵様や庚申塔などの石仏にはまってしまいました。

さいたま市の石仏探しの参考書として
「石の文化財-浦和の石造物」浦和市教育委員会
「郷土の石佛 写生行脚一期一会」酒井 正

私家版さいたまの石仏のホームページ版は
http://saita-seki.jimdo.com/

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2024.01.06
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西区の石仏もあとは国道16号線の北の地域を残すのみとなりました。西のほうから宝来、指扇領辻、峰岸、中釘、高木、清河寺、内野本郷、西新井と進みます。今日は宝来の石仏を見てみましょう。

福寿庵百観音 西区宝来1313​[地図]


指扇駅から県道57号線を北へ向かい、国道16号線の高架下を過ぎてすぐ先の宝来交差点。ここから北へまっすぐ進む道は上尾の平方方面へ向かう「平方道」、途中を斜め右に入ると秋葉神社へ向かう「秋葉通り」になる。近くに大きな病院のある宝来交差点の100mほど先、秋葉通りとの分岐の信号交差点の少し手前、道路左側に斜めに入る細い道を下りてゆくと左手に福寿庵百観音があった。その脇のブロックの小堂の中に石塔が立っている。福寿庵百観音は「無食供養塔」についての​先日の記事​の中にも書いたが、十誉是心という尼僧が元禄12年に建立したもので、堂内には各観音霊場から移し祀られた百体の観音像が収められている。市の有形民俗文化財に指定されているが、一般には公開されていないらしい。


小堂の中 庚申塔 元禄10(1697)駒型の石塔の正面を彫りくぼめた中 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


像の表面は風化のためにやや摩耗しているが白カビは少ない。三眼の青面金剛。持物は矛・法輪・弓・矢。


足元にはいままでに見たこともないほど小さく貧相な邪鬼。両脇を二鶏に挟まれる形。邪鬼の下に正面向きに座る三猿。その下の部分に七名の名前が刻まれていた。


堂内の空間は狭く、目視はできるが写真は難しい。塔の右側面手前に造立年月日。奥に供養導師・・・


造立年月日の下に施主以上七人敬白。供養導師の続きは福正寺豎者□□法印。


左側面には武刕足立郡指扇領下宝来村と刻まれていた。


庚申塔の小堂の裏、敷地の北西の角に三基の石塔が並んでいた。写真奥の瓦屋根の建物が百観音堂。左奥に見えるのは県道57号線に上がる歩行者用の階段。


左 馬頭観音塔 寛政10(1798)駒型の石塔の正面上部を舟形に彫りくぼめて、敷茄子付きの蓮台に座る馬頭観音像を浮き彫り。


二臂の馬頭観音は忿怒相。頭上に馬頭がくっきり。舞いあがった衣装など、江戸時代後期の観音菩薩像らしい細密な装飾的表現。


石塔の正面下部中央「武州足立郡差扇領拾九ヶ村入合」近隣の19の村が共同利用できる入会地を示す石塔だろう。上部両脇に造立年月日。右下に南 よの 大ミや 道、左下に北 おい袋 川こへ 道と刻まれていた。


中央 如意輪観音塔 寛政10(1798)駒型の石塔の正面上部に二臂の如意輪観音坐像。左の馬頭観音塔と同年同月造立で両観音像の作風はほぼ同じ。二基セットと考えられる。


石塔の正面下部 右に造立年月日。中央 開眼導師 慈覺山福正寺大二十七世□□。左に差扇領拾九ヶ村入合原。右下に北 おいふくろ かハこへ 道、左下に東 よの 大ミや ミちと刻まれていて、やはり道標になっていた。この二基の石塔は馬頭観音塔、如意輪観音塔というよりも、道標を兼ねた入会地を示す石塔で、それぞれに観音様を主尊として刻像したものというべきなのかもしれない。広い川原の入会地の入口二ヶ所に、この二基の石塔が立てられていたのではないだろうか。


右 念仏供養塔 享和元年(1801)角柱型の石塔の正面 梵字「キリーク」の下に「百萬遍念佛供養塔」右脇に天下泰平 國土安穏。左脇に風雨順時 五穀成就。下部両脇に造立年月日。


塔の左側面、細かい文字で上宝来村、辻村、峯岸村、別所村、赤羽子村はじめ二十数ヶ村の名前が刻まれている。最下部に武刕足立郡 下宝来村 願主とあり一名の名前があり、この念仏供養塔の造立は下宝来村が中心になって、近隣の多くの村の助力があったということなのだろう。


塔の右側面 右に念佛講諸精霊 千二百七拾五人、左に川施餓鬼精霊 千六百五拾七人。念仏講衆の関係の個人の霊と、川で事故にあい亡くなった人たちの霊、合わせて供養したということだろうか。


観音堂の南の墓地の前に六地蔵塔 正徳4(1714)が西向きに並んでいた。その右脇の角柱型の石塔は地蔵菩薩文字塔 天保2(1831)右側面に戒名が刻まれていて個人の供養塔らしい。


舟形光背に浮き彫りされた地蔵菩薩立像。六体の様子はよく揃っている。右から三基目の光背に主な銘が刻まれていた。右脇に「念佛講供養現當悉地所」左側面に造立年月日。足元の部分に多くの名前、左端に宝来村と刻まれていた。


六基とも足元の部分には同じような銘が刻まれている。こちらは右から2番目、ひらがなで、おさん、おたけ・・・など女性が中心になっているようだ。


六地蔵のさらに南、犬馬供養塔 明治38(1905)犬馬一緒の供養塔は初めて見る。施主は個人。日露戦争(1904~1905)で徴用された犬と馬の墓石だろうか?


県道から下りてくるときは気が付かなかったが、入口近くのブロック塀に囲まれた隅に石塔が立っていた。


馬頭観音塔 文化11(1814)駒型の石塔の正面 梵字「ウン」の下に「馬頭觀世音菩薩」右脇に造立年月日。左脇に施主は個人名が刻まれている。





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Last updated  2024.01.06 19:20:15
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