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カテゴリ:体験記
顕正会の時に『膝詰めの語り合い』をするようによく言われました。 新聞が出れば読み合わせ。 総幹部会の後には歓喜の語り合い。
そうすることで、信心が育つと・・・
なんで、そんなに、しょっちゅう・しょっちゅう、班員を集めては語りあわねばならないんでしょうね。
昼間も夜も昼夜問わず・・・
私にはトラウマ行事の一つです。『膝詰めの語り合い』・・・
顕正会は先輩や役職者が、レールを引いて、そこに班員さんをうまく乗せることが信心の基本のように思います。
求めていようが、求めていまいが、義務にしてしまい、義務感と責任感で人を集めていくように思えてしまいます。
結集が減ることは許されませんし、班員の顔色をうかがい、機嫌を取って、よいしょして、家の前まで迎えに行って、家の前まで送り届ける。 折伏してほしかったら、車で連れて行ってや・・・なんて言われたり。 人探しにスーパーに連れて行ってや・・・と言われて連れてって、個人的な買い物だけして終ったり・・・
退転しないか、「やめるし」と言われないかとハラハラしながら、場を盛り上げるために、ほめたくって、よいしょして・・・・
結局、しょっちゅう合わないといけないのは、班員が顕正会の間違いに気づいて、退転しないか、顔色を見ないといけないからですよね。
退転しそうなそぶりがあると、必死でよいしょして、機嫌取り・・・・
あ~~~こんなこと二度としたくないですぅ~
信心がぜ~~~んぜん楽しくない・・・ 心が病んでしまいます。
信心は求めるものです。 自発で求導心を持って・・・明るく、慈悲の心で・・・我一人立つの厳しさも忘れずに
人に作ってもらったレールを歩くのが成仏へつながってるレールだと言えますか? 成仏への道のりは、求めて自分で切り開き整えていく・・・だから、罪障消滅が出来るんではないでしょうか。
求める人が集まって、唱題会や座談会はできても・・・
人の顔色をみて、膝づめの語り合いは二度とやりたくないしできませんね。 退転すると脅されながら『あっし~クン』にされるのはごめんです。
御宗門は見つめる先が同じです。 日蓮大聖人様と猊下様 まっすぐに見つめていれば、『膝づめの語り合い』なんかしなくても、求める形や手段がどんなものでも異体同心できるんですよ。
思い出しただけで、嫌な思い出ばかりですから、心が拒否って支離滅裂です。
私は、信心を楽しみたいです。つらい罪障も明るく乗り越えていきたい。
顕正会流のやり方は何につけても二度とやりたくないです。 そんな風に思うこのごろです。
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最終更新日
2009年02月03日 02時38分54秒
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