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2010.09.17
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カテゴリ:宗教
一夢庵 怪しい話 第3シリーズ 第906話 「マリアの福音」

 ちなみに、新約聖書で一番古い福音書は”マルコの福音”で、マルコの母が信者だったようで、マルコの実家で基督達は集会を開いたりしていて、”最後の晩餐”の舞台と目されています。

 それ故に、マルコが13使徒などの直弟子でないにもかかわらず、イエス・キリストの言行録とも言える福音書を最初に書けたというか、失伝や歪曲、捏造などを怖れて書き残そうとしたようで、基督ファン倶楽部の会長くらいの立場なのかもしれません(笑)。

 聖書の中で、マルコと推測される人物は、基督が逮捕されて連行されていく後を布袋を被って下はすっぽんぽんで途中まで着いていった男の子だそうで、”(使徒達のように逃げずに)ぎりぎりまで傍にいた!”と言えた人物でもあったようです。

 その為か、マルコの福音において、12使徒達への評は辛口になっていることが多いのですが、それでいて後に成立する福音書もマルコの福音を無視できないということは、関係者の大半がまだ生きていた基督の死の直後から書かれていることと、綿密な取材がされていることが周知の事実だったようです。

 そんなマルコの福音書で、基督の復活は、

”安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
(中略)婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。 ”

としています。

 マルコは基督の復活を最初に告知されたのは、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ(=マリア・サロメ)の3人の婦人とし、その名前の記載された順番で基督との関係が深いと考えていたことになりますが、3人が逃げ込んだ先がマルコの母の家だとすれば、マルコが直に見聞きした可能性もあります。

 マルコの福音書では、基督の生誕に関するエピソードは割愛されていて、それは基督が父親が誰か知れない私生児として当時既に知られていたためだったようで、パウロも基督の誕生の話をしていないあたりで、弟子や知人の間で一つの暗黙の了解事項だったのではないかと。

 ただ、その場合、基督以外のマリヤの息子とされる、(小)ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟は義兄弟か異父弟になり、姉妹たちも、義姉妹か異父妹ということになるわけで、基督が比較的早い時期に家を出ている主因ではないかとも考えられています。

 当時もユダヤ人の社会は父系社会で、身分、職業などはイスラエル12氏族の中でどの氏族出身かで決まり、祖先の系図に大きな意味があり、父親が死んでいても、父親の名前を名乗ってから名前を名乗る習慣にも意味があり、父の名を記さない”マリアの息子”という呼び方が既に異端なわけです。

 マタイの福音書では、他の兄弟姉妹は夫ヨセフの子としていますし、ヨハネの福音書では、イエスの兄弟達もイエスを信じていなかったと暴露していますから、母マリアの不義の子として兄弟姉妹の中で孤立していたのかもしれませんが、地元での布教が上手くいかなかったのは歴史的な事実です。

 なお、母マリアは、エルサレムのシオンの丘で、イエス昇天後12年(かその倍)を生き、エルサレムの近くケドロンの谷か、エフェソに埋葬されたという説もあります。

 それはともかく、(小)ヤコブやヨセフが基督の義兄や異父弟とすれば、マリア・ヤコベは(同名の義理の母親という可能性はありますが)基督の母マリアにもなるのですが、だとすれば、仏蘭西における扱いがマリア・サロメともども軽いような気がしないでもありません。

 マリア・サロメは、南仏蘭西の説話では、クロパの妻マリアと同一人物になるのですが、クロバの妻のマリアといえば母マリアの姉妹(姉だったという資料もある)ですが、イエスの弟子で親密に話し込むこともあったとされていますから、親族の中で例外的に中が良かったのか?赤の他人なのか?

 もっとも、マリア・ヤコベが母マリアで、マリア・サロメが伯母(ないし叔母)マリアだったとすれば、嫁マリア(=マグダラのマリア)が義母達の生活をサポートさせるのに一番信用できて、基督の教えにも精通している人物としてサラを残したと考えると、それなりに辻褄が合う気もして来ます。

 ただ、そうなると、基督教における聖母信仰というのは、本来は母マリアよりもマグダラのマリア達への信仰が主だったことになるのですが、サラを含めて複数のマリア達は、13使徒よりも長く基督の身近に接していて教化されていた家族同然の直系信徒集団だったことになり、実際、基督の処刑も、基督の復活も、使徒達ではなく彼女達が立ち会っているわけです。

 マグダラのマリアの召使いとされるサラが、なぜ2人のマリア達とサント・マリー・ド・メールに留まり、布教活動などをしたのか?という謎も、マグダラのマリアも黒人でサラがマリアの影武者として残ったのではないかという気がしてきますし、サラも布教活動ができたから、黒いマリア信仰が盛んな土地柄だった事を割り引いても、サント・マリー・ド・メールで、2人のマリアへの聖母信仰ではなく、サラを聖者として黒いサラの像を海へ運ぶ祭りが続いているのではなかろうか?

 少なくとも3人のマリアのいずれかが黒人でなかったのならば、召使いのサラは”聖者”に区別されているわけですから、地元の大地母神信仰と習合したのだとしても、なぜマリアが黒くなり、黒いマリア信仰が仏蘭西と西班牙の南部で広がったのか?が分からなくなるわけです。

 では、彼女たちが南仏蘭西へ渡ったのはいつ頃の事だったのか?というと、西暦32年頃に、直弟子集団のヘレニストグループの代表であったステファノが神殿批判などを理由に裁判というかリンチで殺され、他の直弟子集団が見殺しにした頃ではないか?と考えているのですが、マリアの福音書が、12使徒達がそれぞれ別個に布教に出るあたりで終わっていることからも妥当ではないかと。

 なお、マリアの福音書というのは、グノーシス主義の福音書とされることもあり、新約聖書の外典として(時には偽典として)知られているのですが、内容から考えて、登場するマリハムがマグダラのマリアということには異論が無いようです。

 この”マリアによる福音書”は、3世紀頃の原始キリスト教の教父文書などに言及が見られるそうで、初期キリスト教において特殊な地位を占めていた事は確かなのですが、なぜか正本は失伝していて、大枠は分かっていても(これを書いている時点では)詳細な全容は知られていないとされています。

 詳細は不明といっても、19世紀にエジプトで発掘され、後にベルリンに運ばれていたパピルスの冊子(”ベルリン写本”)や、エジプト南部に位置するナイル河畔の村ナグ・ハマディに近いジャバル・アッターリフで、アラブ人農夫ムハンマド・アリ・アッサンマンが、土中から発見した赤い素焼きの壷の中のパピルス写本の束(ナグ・ハマディ写本)があることから、半分くらいは残っているようです。

 ちなみに、基督自身は弟子たちとアラム語で話し自筆の記録は残していないので、元はアラム語の口伝であったものが文書化され、後にギリシア語に訳され、ギリシャ語版からも更に他の外国語へと翻訳されていったようです。

 ベルリン写本はナグ・ハマディ文書とは別個の写本ですが、ギリシア語原書より翻訳されたサヒディック方言のコプト語で書かれているそうで、欠落が多いものの、なかなか意味深な内容だったりします。

 マリアの福音の大枠は、前半は、復活した基督と弟子たちの問答と、その時の弟子たちの間の反応が主な内容で、後半は、福音の宣教を託されて気後れしている使徒達をマグダラのマリアが励ましたときの経緯が主になっているそうです。

 後半でペトロが”救い主が他の女性たちにまさってあなたを愛したことを、私たちは知っています。”と持ち上げた上で、基督から彼女だけが授かった秘伝を他の人々に公開するように要求し、マリアが幻の内に見た(幻視した)基督の啓示(一種の預言)について解説したところ、アンデレとペトロが信じないで非難したようです。

 それに対してマリアは悔しかったのか泣いて抗弁したとされていますが、ペトロはマリア以外に弟子にも話していない(従ってマリアの話が本当だと誰も助勢できない)事を話すように仕向け、その内容を意図的に否定することで、自分たちより基督に近しかったマリアを自分たち以下の存在に貶めるという汚い手口なわけで、流石にレビがその非礼をたしなめたものの、使徒たちがこの会合を最後に、マリア達と袂を分かち、自分たちこそ正統で正伝と称して布教を始めた事が明示されてもいるわけです。

 新興宗教でカリスマだった初代が亡くなった後、残された家族と高弟達が揉めて分裂するのは現在でもよくある光景ですが、基督の生前から家族同然だったマグダラのマリアに代表される女性集団は、基督の処刑と復活にも告知の段階から立ち会ったわけで、その時に逃げ回っていた高弟達にとっては、自分たちが継承者だと正当性を主張するときに、かなり邪魔な存在になっていたと考えられます。

 マリアの福音書はグノーシス派の聖典としても知られているのですが、グノーシス派に区分されるカタリ派(Catars:アルビ派またはアルビジョア派)が11~13世紀に南仏蘭西で勢力を持ち、”ヨハネ福音書”を正典としていたのですが、独自の聖書訳を持っていたそうですから、ここにマリア集団の直伝が継承されていて、”マリアの福音書”の正本があった可能性は高いのではないかと考えられます。

 が、当時、仏蘭西の北部を支配していた仏蘭西王と羅馬教皇庁の合意の下で、アルビジョワ異端十字軍が結成され、100年近い年月をかけてカタリ派の信徒は虐殺され、宗派としては消えたそうですが、北部の仏蘭西王が南部も併合したがるのはともかく、そこになぜ羅馬教皇庁が絡む必要があったのか?は謎です。

 ちなみに、3-879”シオン修道会”で少し触れたように、仏蘭西国王フィリップ4世と教皇のクレメンス五世が共謀して(1307年10月13日の金曜日に)テンプル騎士団を虐殺した上で財産などを押収というか没収したことは比較的知られています。

 いずれにしても、基督の最も身近にいた女弟子達の集団は、当然、基督の死後も布教活動をしていたと考えられるのですが、何故か”その後”の話は使徒言行録にも他の基督教集団の記録などにも全く書かれておらず、文字通り”消された”ようで、敢えて言えば、南仏から西班牙にかけての黒いマリア信仰に紛れて影を残しているのではないか?ということです。

初出:一夢庵 怪しい話 第3シリーズ 第906話:(2010/09/11)





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Last updated  2010.09.17 00:26:45
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