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2012.12.23
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カテゴリ:宗教
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第577話 「カナン攻防戦」

 旧約聖書を読んでいると、これを書いている時点のイスラエル問題の根が深いことが良く分かるのですが、同時に、なぜエジプトがアラブとイスラエルとの仲介者になることができるのかも理解できるところがありますし、その辺りの知識が皆無の状態では中東情勢というのは理解できないような気がしないでもありません。

 まさに、歴史は役者を変えながら螺旋状に同じようなことを繰り返しているなあと思うわけです ・・・ それが、陽のループか陰のループかはともかくとして。

 それはさておき、多数のイスラエル人を煽動して約束の地”カナン”を目指したモーセが道半ばというかカナンの目前で没し、同道していたイスラエル人達の命運は後継者のヨシュアに委ねられることになり、ヨシュアのカナン攻略戦は、ヨルダン川西岸、死海の北に位置する城塞都市エリコの攻略から始まることになります。

 エリコの街が堅牢な壁によって守られていたということは、モーセ達以前にもエリコないしその周辺都市を攻めた勢力がいたことを意味していますし、いずれにしても守備する側も理不尽な襲撃を警戒していたことは確かな話になります。

 新世紀エヴァンゲリオンのTVシリーズでアスカが”ジェリコの壁”とのたまわったときに、”へ?最終的に崩れてエリコは陥落するけどいいの?”と思ったのは私ですが、アスカもまたどの程度まで旧約聖書のエピソードに詳しいのか怪しいところではありましょう。

 伏線的に、”機動警察パトレーバー”シリーズのスタッフが少なからずエヴァにも関わっていて、パトレーバーの特に劇場版の第1作(1989)が旧約聖書を下敷きにしていることは比較的知られた話ですが、イメージソングが”約束の土地へ (笠原弘子)”だったことはぼちぼち忘れられてきているようです ・・・ 今の日本の方がしっくりする神曲のような気がしていますが。

 実のところ、エリコの壁というのがどの程度の代物だったのかは定かでは無いのですが、後にソロモン王がエルサレムに建築しヘロデ王が改築した神殿の西の壁、いわゆる”嘆きの壁”よりは小規模なものだったと考えておけばいいのかなと。

 洋の東西を問わず、ミサイル兵器の類が発達するまでの城塞の防御としては、掘(ほり)や塀(へい)を張り巡らせる事が多く、ミサイル兵器の類が発達して城壁が役に立たなくなると山をくり抜いたり地中に施設を建設するようになっていきます。

 つまり、”盾と矛”の話でいえば、これを書いている時点だと矛(攻撃側)の方が優勢ということですが、紀元前のカナン攻防戦の頃は攻城兵器の類が未発達だったこともあって盾(防御側)の方が優勢な時代ということができます。

 もっとも、城塞の規模というのは基本的に経済力に比例しますから、例えば日本だと最大規模の城が江戸城になったように、各地の大名が築く城と、その大名を使って築かせる城とでは当然のように後者の方が規模が大きくなりますし、そもそも大規模な土木工事を行えば、その労働力の分、農業生産などに振り向ける労働力が減少し”食糧生産”という生き死に直結する部門の生産力が低下するわけですから、その辺りの配分も考慮する必要があります。

 日本の城の場合、当初は自然地形に手を加えて利用したようですが、土木技術が発達してくると土累(どるい)で堤を築くあたりから進化が始まり、石垣が組まれるようになり、その石垣に使われる石が次第に大きくなったり、石の組み方が緻密になっていき、石垣の一つの完成形が熊本城や江戸城になったわけです。

 此の辺り、Aという君主を倒したBという君主がいたとすれば、BはAよりも大きな城を築きたがるというか、大きな城を築くことで経済力や影響力といった目に見えない物を具体的な形 ・・・ ある意味で恫喝の手段 ・・・ にすることができるだけに、先人が建造した物より大きく華麗なものを造れば自分の方が格上と言えるわけです。

 比較されるのが嫌なら、先人の造ったものを跡形もなく破壊してしまうというのも一つの方法論ですが、地政学的に”そこしかない”ため増改築が繰り返された事例もありまして、例えば、顕如(1543~1592)が事実上の居城としていた石山本願寺が修行のための寺院というより、戦争用の館というか実質的に当時の”城”と遜色のない構造物だったことは比較的知られた話ですが、信長軍と11年間戦い抜いた石山本願寺の跡地に豊臣秀吉が造ったのが大阪城で、その大阪城を大阪夏の陣(1615)で落城させて天守閣などを灰燼に帰させておきながら、ほぼ同じ場所に徳川家康が大阪城を再建していたりします。

 戦国時代の末くらいまで、館と城の区別が意外と難しく、武田信玄が”館”を整備していても、”城”の整備は意外と不熱心で、逆に、息子の武田勝頼が織田信長との抗争を前提に”城(新府城)”の建設を熱心に行った結果として、経済負担や労働力の提供などを要求された家臣や領民などが離反しやすくなったことと合わせて考えると、”籠城戦”を想定した段階で負けが見えている戦のが方多いと書いていいのではないかと。

 もちろん、豊臣秀吉の小田原攻めのとき、石田三成が失敗した忍城攻略戦(一説には守備側の正規兵500、攻撃側の正規兵2万)のように、総ての籠城戦が守備側の敗北で終わっているわけでも無いのですが、籠城戦の場合、それこそ小田原城攻めに秀吉が取った戦略のように、基本的に”封鎖して外部からの補給を断つ”ことを続けるだけで”いつかは”城は落ちます。

 豊臣秀吉の北条攻めの頃の小田原城は当時の日本で屈指の規模と堅牢さを誇っていた(故に、秀吉相手に籠城線を選択しえた)といっても防壁は石垣というより土累が主で一部が石垣という構造だったあたりでも、鉄砲など火器が登場する以前と以後で築城法そのものが変わってきていることがわかりますし、そろそろ時代遅れになりつつあった城だったとも言えます。

 エリコの壁に話を戻すと、当時のイスラエル側の兵力ではとても陥落させることができない規模と性能だったようで、早い話が攻めあぐねていたのですが、エリコの北のギルガルに布陣していたときに、”主の軍の将軍”を名乗る謎の人物が接触してきて、ヨシュアに奇妙な城攻めの方法を伝授したとされています。

 どのような方法だったのか?というと、”角笛を吹き鳴らしながら”契約の函”を担いだ司祭たちと、ジェリコの周囲を1日に1周することを6日間繰り返し、7日目だけは1日で7周して7周目が終わると角笛の合図と同時に皆で大声を上げる”というもので、実施しても攻める側に死傷者が出るような方法でもなかったためか、ヨシュアは採用して実行に移しています。

 で、7周目に角笛の合図で皆が大声を上げると、エリコの壁が急に崩れて中へ突入できるだけの隙間が生じ、イスラエルの兵がそこから突入したことで7日にしてエリコは陥落した ・・・ とされています。

 外周を意味もなくグルグル回ることで守備側の注意をそちらに引きつけて置いて、内部に潜んでいる協力者が城壁をすこしずつ壊していって、最後の7日目に角笛と叫び声の合図に合わせて内側から突き崩したというのが真相のような気がしますが、その根拠として、その後の城攻めで同じ戦術が使われた形成期が無いことがあり、一回だけなら効果的というか劇的な戦術だったのではなかろうか?

 神の奇跡という説も有れば、共鳴や共振を利用して城壁を脆くしていって最後の一押しの”大声”で壁が崩壊したのではないかといった説もあるのですが、少なくとも、外から内へ壁が崩れたわけではないようですから、今ひとつ説得力に欠けます。

 もっとも、ヨシュアのカナン攻略戦に関しては神秘現象や奇跡のオンパレードで、アモリ人の5人の王と戦ったときは天から大石が降ってきて敵を蹴散らしたとか、ハツォルで連合軍と戦ったときは神が激励したとかいった具合だったのですが、ヨシュアの一代でカナンを平定してのけた事は確かな話になります。

 疑ってかかれば、エジプトからの兵士や兵器の増援を神ないし神の奇跡にしておけばイスラエルとエジプトの立場からすれば丸く収まったような気もしますし、初歩的なものでも投石機(カタパルト)の類が持ち込まれていれば、空から大石を降らせることもできたでしょうし、エリコの壁を砕くことも出来たのではなかろうか?

 もっとも、カタパルトは遅くとも紀元前4世紀頃には実用化されていたようで、アレクサンドロス大王(アレキサンダー大王、前356~前323)の東征で使用された記録もあるのですが、ラムセス2世(前1314~前1224)の頃のエジプトで実用化されていたかどうかは定かではありませんし、仮に既に存在していたとしても、当時の野戦の主力は(馬に引かせる)戦車だったようですから主力兵器では無かったのではないかと考えられます。

 いずれにしても、カナンの地はパレスチナ人が実効支配する地域となり、12部族に土地や都市が分配されることになるのですが、ヨルダン川東側が南の死海のあたりがルベン族、中流の辺りがガド族、北端というか源流のあたりがマナセ族に与えられたものの、マナセ族はカナン攻略に功績が大きかったとして、ヨルダン川西側の一部も分け与えられています。

 ヨルダン川西側の大半は残りの部族で分けているのですが、その土地の攻略に功績があった部族に分け与えられたとも、くじ引きで決まったとも解釈できる微妙な配分になったようですが、唯一、(モーセが自分の家系としていた)レビ族に関してはなぜか唐突に”祭司の家系”ということになって、土地は配分されず国全体で48の都市を与えられることで落着しています。

 もっとも、それはカナン全土の広域で情報収集が可能なのはレビ族だけということですし、何らかの指示を全土に出すにしてもレビ族経由になりやすいことを意味している上に、司祭の家系ということは、神の言葉を取り次ぐ役目はレビ族が独占すると暗に主張しているに等しいとも言えます。

 というか、外部からコントロールする場合、レビ族を抑えておけば残りの11部族をコントロールすることができることを意味していますから、土地の配分がされなかったことも、レビ族が土地を欲しがると混乱が起こりやすいからかだったのかもしれません。

 かくして、カナンの地へイスラエル人たちは定住するようになるのですが、それを見届けた後、ヨシュアは110歳で没したそうですが、其の後のカナンの地にも艱難辛苦は訪れ続け、”士師”と呼ばれる英雄達が活躍する時代になるのですが、その辺りの話や、後のダビデとゴリアテとかソロモン王の話などに関しては、またいつか機会があればということで。

(2012/11/24)





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Last updated  2012.12.23 08:38:14
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