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2013.03.12
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カテゴリ:宗教
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第656話 「ミトラ教」

 旧約聖書を根本経典の一つとするユダヤ教、基督教、イスラム教に関してはこれまでにも何度か取り上げてきたのですが、もちろん旧約聖書が成立する以前から中近東というかメソポタミアというかオリエント世界に宗教は存在していますし、ユダヤ教が世界最古の宗教と実証されているわけでもありません。

 というか、宗教としてのユダヤ教の成立ということになると、話が伝説や神話の類でなくなるのがバビロン虜囚前後からの話になり、旧約聖書においてソロモン王というか古代イスラエル王国建国前後からの分量が異様に多いあたりでも実証されていると(私は)思いますし、いわゆる”バベルの塔”がバビロン虜囚としてバビロニアに連れてこられたかってのイスラエル王国の民がバビロニアで目にすることになった塔に由来するのではないかという説には一定の説得力があります。

 更に言えば、”ノアの洪水”の話にギルガメッシュ(Gilgamesh)王に由来する元ネタがあるという話も何度かしてきましたが、3分の2が神で3分の1が人間の血を引くギルガメシュ王に関してはお馴染みシュメール人達の神話物語に登場する実在したと考えられる人間の王という説が有力で、シュメール人の神話物語をアッカド語で編集したものが断片的に発見されていますが、主にアッシリア語で書かれたニネベ版によって知られています。

 アッカドの軍事侵攻によってシュメールの覇権が崩壊した後も、文化的にはギルガメッシュ叙事詩の継承に限らず、楔形文字の使用や、法律に基づいて統治したり度量衡を統一して用いたりする社会制度などは大枠でシュメール文明の継承が続いていたと考えられますし、アッカド帝国が崩壊した後に覇権を掌握した古バビロニア王国において、六代目のハンムラビ(在位、紀元前1792~紀元前1750年)国王が確立したマルドゥク信仰にしてもハンムラビ王が考案したというより、既に存在していた古代バビロニアの神話体系が母胎になっていると考えた方が自然ではないかと。

 また、同じ頃、古代バルフの地(現・アフガニスタン)でゾロアスター教の原型となる宗教が形を整え始めたと考えられ、それを母胎にして当時の幾つかの宗教の教義を再編し整理したゾロアスターが紀元前1600年頃~紀元前1000年にイランのあたりで布教活動を行っていたと考えられているのですが、ゾロアスター教が”最後の審判”の基本的な構造を取り入れていたり、神の使いとして地上で働く天使という概念を導入した最初期の宗教になることは比較的知られた話になります。

 ゾロアスター教が誕生することになったアフガニスタンは、メソポタミアと印度との境界というか中継地で、起源が定かではない昔から古代インド・イランのアーリア人が共通に住んでいた地域の一つだけに、シュメール文明だけでなく古代印度の文明の影響も受けていたようで、ミスラ(ミトラ)神の信仰は確認できる範囲で最古の神の一柱ではないかとも考えられます。

 印度の側からだと、古代インドのバラモン教の聖典(これが”ベーダ”。ちなみに”リグ”は”賛歌”の意。)の一つとして知られ、印度最古の文献ともされている”リグ・ベーダ(紀元前1200~紀元前1000年頃に成立。10巻1028歌。)”におけるアーディティヤ神群の一柱がミスラ神で、魔神的というか魔術的なヴァルナ神と対をなす存在とされることが多く、光明、真理、盟約などを担当するとされ、”光の神”でもあり”契約や約束の神”でもあったようです。

 このミスラ神の契約や約束の神としての性格は、アーリア人においては共通認識になっていたようで、後にヒッタイトとミタンニとの間で交わされた条約文に、ヴァルナ、インドラ、アシュヴィン双神だけでなくミスラの名前も記載されているあたりで、意外と古代印度の宗教とゾロアスター教などアフガニスタン界隈を起源とする宗教には共通性があるようです。

 ただ、時代が下がってバラモン教などが進捗するのに比例して、印度におけるミスラ神は他の神々の中に埋没していったというか次第に上位神の地位だったものが相対的に地盤沈下していくことになるのですが、イランでは多数の神々のなかでも特殊な位置付けを与えられることが多く人気が継続しています。

 ゾロアスター教においては、創造神であるアフラ・マズダーに善と光の神などの性格も与えたため、当初は、アフラ・マズダーと類似するミスラ神をはじめとする多くの既存の神々を排斥したようですが、どうもミスラ神の信者が多すぎたようで、やがてがゾロアスター教においても、中級神”ヤザタ”という形でミスラ神信仰も取り入れられ、根本経典である”アヴェスター”においても讃歌を有する程度に公認されアフラ・マズダーの化身の一つがミスラといった具合に解釈されるようになります。

 現実問題、時代が下ってゾロアスター教がササン朝ペルシア(226~651年)の国教になった頃でさえ、英雄神や太陽神としてのミスラ神信仰は根強かったようですし、更に後の基督教の布教活動においてもミスラ神信仰対策が広域で必要になったあたりでも、密儀神ミトラス(ミトラス教)を崇拝する信徒が意外と多いことでも、ミスラ(ミトラ)神信仰って何?という知識は不可欠と言えるのではないかと。

 例えば、以前から怪しい話においては、”12月25日は基督の誕生日ではない”というのは常識としていますが、そもそもは、12月25日が”ナタリス・インウィクティ”と呼ばれるミトラ教徒の祭典が行われる日で、この日に ”ソル・インウィクトゥス(不敗の太陽神=ミトラ)が誕生”したことを祝っていたわけです。

 羅馬帝国時代においても、ミトラス教では、冬至を境にして短くなり続けていた昼の長さが逆に長くなっていくことから、”太陽神ミトラスは冬至に”再び生まれる(=太陽神が生まれ変わる日)”として盛大に祝っていますから、素直に考えれば、”基督はミトラ神の化身である”と錯覚させたかったが故に、いつのまにやら”12月25日はイエス・キリストの誕生日”として定着するようになったのではないかと。

 その辺り、新約聖書にさえ基督の生年月日の記載は無いのですが、聖書研究者などから、基督が誕生する前後の出来事の中で歴史的に何月頃といった精度でわかっている事件や星の配置などに関する記述から考えて、幾つかの説が提示されているのですが、4~7月の間に幾つかの説があるものの、共通しているのは”12月25日でないことだけは確か”ということだったりします(笑)。

 更に時代が下がって、12月6日に小アジアのミュラの司教聖ニコラウス(4世頃。阿蘭陀語 Sint Klaes。)の祝日を亜米利加に阿蘭陀系清教徒の移民が伝えたことで、いわゆる”赤い服を着て白い髭を生やし、クリスマスイブの日にプレゼントを配って回るサンタクロース”の混宗も始まり、ゲルマンの冬至祭”ユール”かケルト民族あたりの樹木信仰が始まりと考えられるクリスマスツリーなどの風習が独逸から英吉利王室へ伝播し、英吉利で近代郵便制度が発足したあたりで、日本で言えば年賀状に相当するクリスマスカードを郵送する阿漕な商売が始まったといった話は以前にもしたことがあります ・・・ メジャーな祭典になればなるほど相乗りされるということかなと(大笑)。

 いずれにしても、ミトラ神信仰(Mithraism)は古代イランで普及し、ゾロアスター教やマズダク教などとも習合しつつ、1世紀後半から4世紀頃までに羅馬帝国のほぼ全土に広まったようですが、一般の信徒というか大衆に公開されている宗教儀式と密儀が別れている宗教でもあり、密儀に属する祭儀は洞窟や地下神殿で行われたためか、犠牲に牡牛を用いることが知られている程度で詳細は不明だったりします。

 が、入信式を伴う7位階(大烏、花嫁、兵士、獅子、ペルシア人、太陽の使者、父)の信徒組織を形成していた秘密結社と捉えれば、フリーメーソンなど中世の職業別や宗教別の秘密結社の原型ないし、その成立に影響を与えたと考えられますし、一般にオープンになっている部分がありながら、その核心部分は謎というあたりで、いささか思うところがないでもありません。

 しかしながら、基督教が布教活動を行おうとすれば、嫌でも多数の信者を有していたミトラ教を切り崩し、ミトラ教徒を改宗させることが不可欠になるのは小学生でもわかる理屈で、基督教徒達が、ミトラ教との相互の影響関係は明白ではないとすることが多いのも、邪推に拍車をかけるところではあります。

 例えば、カトリックなどの典礼でかぶる冠(”司祭冠”)や正教会の奉神礼で用いられる冠(”宝冠”)もまた”ミトラ”と呼称されているあたりでも、両者の間に何もなかったとする方が無理があるのではないかと思いますし、旧約聖書においてもしばしば神や、十戒などで知られるモーセなどの人間の預言者達が布教対象である下々の者達が”牛の像を崇拝する”ことに激怒して大量殺戮していますから、印度~イラン界隈というよりもメソポタミアからエジプトにかけてのミトラ信仰は圧倒的な規模だったのではないかと。

 歴史的には、羅馬帝国がミトラ教を公式に受け入れたのが、コンモドゥス帝(在位180~192年)がミトラス教に儀式に皇帝として初めて参加したときとされていて、実際、ミトラ教の考古学資料が羅馬帝国の領土内から出土するようになるのはこの頃からの話になりますが、ダキアなど帝国の北方地域にゲルマン民族が侵入するようになると衰え、その後、ディオクレティアヌス帝(在位284~305年)が羅馬帝国の庇護神として不敗太陽神ミトラス(Dio Soli invicto Mithrae Fautor)に祭壇を築いたあたりにかけてやや持ち直した後、衰退していきます。

 決定的だったのが、コンスタンティヌス1世(コンティアヌス大帝、在位306~337年)が従来の皇帝が基督教を弾圧していたのに対して基督教の公認(313)に回ったことで、325年のニカイア公会議を主導し、死に際して基督教の洗礼を受けたことで、それまで多神教の信仰で緩やかに融和していた羅馬帝国内の宗教事情は激変し、ミトラス神殿やミトラス教関連の碑文などが基督教徒によって襲撃されて破壊されるようになります。

 一神教の恐ろしさというか、あれほどの隆盛を誇ったミトラ教をして5世紀頃には、かっての羅馬帝国の版図から消滅してしまうのですが、その間、ミトラ教徒に限らず基督教徒からの襲撃を逃れるためにも地下組織化がさまざまな多神教の教徒達によって形成され、グノーシス主義の継承者達なども合流していく過程で、”基督教VS魔法使い集団”の構図が形成されていったとも言えるようです。

 その後、宗教裁判や魔女狩りの時代を経て産業革命を向かえたあたりで、錬金術は化学へ、占星術は天文学へといった具合に、魔法から科学が分派して飛躍的に発展し、”基督教VS科学”へと対立の構図は変化していったのですが、それ以降の話となると、皆の衆の方が御存知ではないかと。

(2013/02/25)





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Last updated  2013.03.12 15:28:30
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