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2013.03.27
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カテゴリ:民俗学
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第669話 「客の心得」

 日本文化の一つの概念に、”内と外”とでもいった考え方があり、神秘学的に言えば”結界の有無”ということになりますが、内と外との間には明確な境界線があるとされ、分かりやすく言えば”履き物を脱ぐ”ことが要求されます。

 本来、外から不浄を内へ持ち込むなとでもいった発想だったのかもしれませんが、特定の領域に入るときに履き物を脱ぐことが求められるということは”履き物を履いていること”が暗に要求されているということであり、裸足でウロウロしている人はお断りということも意味しているわけです。

 その辺り、竪穴式住居がわかりやすいですが、土間だけで形成されている建物に入る場合は履き物を脱ぐ必要が無く、家に”床”が形成されるようになると内と外との物理的な違いが生じ始め、外から泥や埃の類を持ち込むと室内が汚れることが問題になり始めるわけです。

 ここで興味深いのは、椅子と机、ベットを使う生活をしていた中華文明の文化を古墳時代くらいから意識して輸入し国風化していながら、ついぞ本格的な椅子と机、ベットを使う生活様式が日本に定着しなかったことで、敢えて言えば、朝廷において椅子文化がわずかながらも用いられていた程度になります。

 日本の場合、加工が面倒な木靴よりも夜なべ仕事で編める草履の方が遥かに普及していくのですが、ある意味で草履に近いサンダル文化だった羅馬帝国などと違い石などを敷き詰めて舗装した道路よりも未舗装の道路の方が多く、時代劇などで宿に着いたら足の汚れを洗うために水の入った桶を宿の従業員が持ってくるシーンがあるのは比較的知られた話になります。

 なぜ日本の道路は未舗装だったのか?と考えると、”馬の有無”ということになるのですが、正確には”馬車の有無”ということで、馬に引かせるチャリオットのような戦車や人や荷物を載せて運ぶ馬車を効率よく動かそうとすれば、雨が降ってもぬかるむことが無く、重量物が通過しても道が崩れないような工夫が要求されるというのはわかりやすい話ではないかと。

 日本の舗装道路といえば、明治神宮の参道などが分かりやすいですが、せいぜい砂利を敷き詰める程度で、ぬかるんだ泥道を歩く不快さとは無縁になるものの、靴を履いていても歩きにくいったらありゃしませんし、荷車の類でさえ通過させにくいのは御存知の通り。

 なぜ石を敷き詰めて固める舗装道路の存在を古墳時代くらいから既に知っていながら未舗装道路が昭和の頃まで放置され続けたのか?といえば、江戸時代の徳川氏などは軍事道路として考えた場合、移動しにくい道路の方が迎撃しやすいと考えていた節があり、山道や河川などを自然の要害として放置しておくことが多かったというのは定説になっています。

 野戦に定評のある徳川家康の発想としては、江戸城に籠城して決戦するのではなく、自然の要害を利用して野戦で直接的の戦力を潰して決着を付ける気でいたからこそ道路を未舗装のまま放置していたとも考えられますし、江戸城が史上空前の規模を誇る城であったとしても、大砲などの攻城兵器が発達すればするほど落城のリスクが増大することは既に家康の時代でさえ認識していたと考えられます。

 実際、天下の名城で難攻不落と言われた小田原城が戦国時代末期に包囲戦の後に開城に追い込まれて落城し、これまた小田原城を越える巨城で難攻不落と言われた大阪城も徳川勢の大軍に囲まれて包囲戦の末に炎上し落城したことで、籠城しての迎撃戦が無効化されていた ・・・ 敢えて城を攻めなくても包囲して物資の補給などを断てば、いずれ城内は餓死に追い込まれる ・・・ ことから考えれば、道路を舗装して早く移動するメリットの方が大きいのではないかと。

 建物が巨大化すればするほど、それを守るための人員が増加し、人員が増加すれば消費される消耗品も増加し、外部からの補給が無ければ大量の備蓄をしていてもいずれは尽きるわけですし、第二次世界大戦の初頭に仏蘭西軍が独逸方面からの進軍を阻止するために構築した半地下の巨大要塞”マジノライン” ・・・ 仏蘭西版の万里の長城ですな ・・・ が独逸軍の機甲部隊が想定していなかった森林地帯を突破する迂回作戦を実施して迂回したため戦略的に無効化され、あっさり巴里が陥落したことは比較的知られた話になります。

 話を戻すと、日本で奈良時代くらいから石を敷き詰めて舗装された道といえば、寺社仏閣の敷地内の(参)道や階段くらいのもので、平城京や平安京の内側の道でさえ未舗装が大半だったわけですが、技術的にはというか石を敷き詰めて舗装した道路を造るノウハウを有していたことは確かな話になります ・・・ 平安京内の完全舗装も、やってできないことでは無かったというくらいのことは書いていいのではないかと。

 日本で建物の内部に入るときに履き物を脱ぐ習慣が定着していった理由が、外の汚れを内に持ち込まないためだったとすれば、なぜ海外では履き物を脱がずに建物の内部に入っていく習慣が定着したのか?椅子や机、ベットなどを使った生活様式で説明できるものなのか?といったあたりが謎になってくるわけです。

 江戸時代の頃の百姓が住む家の中には土間だけで、土間に藁を敷いて寝床とする様式が珍しく無く、雨露が凌げるだけでも良しという説もありますが、室内が汚れるとかどうとか言いたくても内も外もあったものではなかったわけです。

 もっとも、高温多湿な日本で、湿気から逃れるために嵩上げして床を造るメリットは大きく、床を造って板張りにして過ごしてみれば快適となれば定着も普及もしていくとしたもので、富裕層から板張りの床を備えた家屋が普及していくことになります。

 また、四季のある日本では、冬場の寒さをどのように凌ぐか?という点も切実で、暖房器具として開発され定着したのが畳(たたみ)で、生産に手間暇と技術が必要な高額商品であったため、これまた富裕層から普及していったのですが、適度な厚みと弾力があり槍や弓矢を防げて火縄銃の弾もある程度は防げる盾として使える程度には軽量というメリットから貴族だけでなく武家にも愛用されるようになっていきます。

 江戸時代になると、江戸の町で長屋が普及することになり、長屋というのは一種の簡易なプレハブ住宅というかユニット住宅ですから(笑)、定型で造られている畳が重宝され、三畳~四畳半~六畳といった畳を前提とした居住空間の単位が庶民にも普及していくようになります。

 ちなみに、江戸時代でも綿を多用する蒲団は貴重品で、百姓は藁の中にもぐりこんで寝具としたり、町人は褞袍やかいまきなど綿の入った厚めの着物を寒い時期の寝具としていて、それが煎餅蒲団や万年床であったとしても一定以上の生活水準を意味していますし、今となってはピンとこないのが蒲団を借金のカタなどに持ち去られる時代劇などの描写で、”蒲団なんて持っていってもたいした金にならないんじゃないか?”と思いがちですが、昭和の高度経済成長期くらいまでは十分に綿蒲団に価値があったわけです。

 私は寝袋愛好派ですが、庶民がベットに寝て羽毛布団を使うことさえ珍しく無くなった21世紀の日本だと、綿布団の人気は凋落傾向で、少なくとも、綿蒲団を使っていて古くなったら中の綿を抜いて打ち直して再生するようなことはほとんどしなくなってきている ・・・ そんな手間暇と金をかけるくらいならゴミとして捨てて新しい蒲団を買う ・・・ のは御存知の通り。

 土間だけの家から、床が付いた家になり、床が板張りから畳へと変わると、さすがに土足で床の部分に上がり込むことは後の掃除の手間という点でも家主に対して失礼になることが分かりやすいのですが、海外では床の部分が椅子や机、ベットなどの脚で対応され、畳のような植物を利用したマットレスが普及しなかったことで、家の内側が汚れるという概念が日本ほど明確にならなかったと考えることもできます。

 現在でも、昭和の頃に建てられた農家などで、入り口から入ると土間があり、腰をかける座り口や段差があって居住空間である居間などが設けられている間取りの家がありますが、日本の場合、物理的に居住空間が高い位置に作られていたからこそ、来客は履き物を脱いで上がって話し込む必要があるか、履き物を履いたまま座り口で話しをする程度で良いか、あるいは家の外から呼びかけて会話というか伝言を伝える程度でよいのかといった使い分けも生じたわけです。

 従って、建物の中に入って一定の時間を過ごすようなら履き物を脱ぐのが常識となっていったと考えられるのですが、その常識に混乱が生じるようになったのが文明開化の明治以降の話で、土足で出入りするのが常識の欧米の文化が雑多に流入してくると混乱しない方がおかしいというか、いまとなっては冗談のような話も大真面目で繰り広げられたのでした。

 日本のデパートが、当初は履き物を脱いで中に入っていて、そのために客の履き物を預かる下足番がいたという話は以前に何度かしたことがありますが、この場合は、やはり未舗装の道路を歩いて生きて埃や泥を店内に持ち込ませないためだったのでしょうが、デパートといいながら商品が置かれた畳敷きのスペースが広かったことが主因かなと。

 このデパートに入るときに履き物を脱ぐ光景は、デパートが完全な西洋建築となり都市部の道路の舗装が進むと廃れて履き物を履いたまま買い物をする光景が当たり前になっていくのですが、なぜ日本人は建物の中というか居住空間に入るときに履き物を脱ごうとするのかがわかりやすい事例かなと。

 明治といえば、明治5(1872)年に新橋~横浜間で鉄道が本格営業を開始したときのこと、新橋と横浜をほぼ1時間で結んでいたのですが、新橋を発車した列車が1時間後に横浜に着いたときに乗務員が促しても乗客が降りようとしなかったことが知られています。

 理由は2つあって、1つは、それまで健脚な人でも半日はかかっていた新橋から横浜を1時間程度で移動できるわけがないと考えた当時の人達が納得できなかったこと、もう1つは、外から覗いた列車の内部が綺麗だったため、履き物を脱いで列車に乗り込んだため、列車から降りるときに履き物が無かった人がいたためだったりします(実話)。

 ちなみに、履き物を脱いで乗り込んだと主張する客がいたので、乗務員が電信を使って乗車駅に確認すると確かにホームに下駄が揃えてあったそうですが、この履き物置き去り騒動は、仮営業を品川~横浜間で行ったときにも生じていたそうで、日本の鉄道史において、鉄道における忘れ物第1号は、1872/05/07に品川の駅に置き去りにされた下駄と書いてよさそうです。

 もちろん、というか透明なガラスも当時の日本人には見慣れないものですから、客車の窓ガラスが何なのか認識できず、頭をぶつけてガラスを割る騒動も頻発したそうで、わざわざガラスに白線を引いて衝突防止というか注意喚起をしたそうですが、ま、乗る方も乗せる方も何かと大変だったんだな~と、妙な感心をすることがままあります。


(2013/03/12)





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Last updated  2013.03.27 08:19:08
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