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壱岐島(いきのしま)は 九州北方の玄界灘にある南北17km・東西14kmの島で 九州と対馬の中間に位置。 周囲には21の属島(有人島4・無人島17)が有り 壱岐諸島と呼びますが 俗にこの属島をも含めて壱岐島と呼び 壱岐島を壱岐本島と呼ぶこともあります。 博多、壹岐、対馬といえば元寇ですね。 鎌倉時代 「文永の役(1274年)」の際は 対馬に続き元軍は壱岐を襲撃し 壱岐守護代・平景隆は100余騎で応戦するが敵わず 翌日 樋詰城で自害し 元軍は同島を制圧。 (文永の役) 「高麗史」には 以下のように壱岐島での戦闘の模様が記されています。 「元軍が壱岐島に至ると 日本軍は岸上に陣を布いて待ち受けていた。 高麗の将である朴之亮及び金方慶の娘婿の趙卞はこれを蹴散らし 敗走する日本兵を追った。 壱岐島の日本軍は降伏を願い出たが 後になって元軍に攻撃を仕掛けてきた。 右副元帥・洪茶丘とともに朴之亮や趙卞ら高麗軍諸将は応戦し日本兵を1,000余り討ち取った」。 (弘安の役) 元軍に占領され大きな損害を被り 「弘安の役(1281年)」では壱岐島の戦いが勃発。壱岐島を占領した元軍と日本軍が激戦を繰り広げ 日本軍は壱岐島から元軍を駆逐することに成功。 いわゆる 神風の御蔭とされていますが 最近では 「嵐は起きなかった」と言う説が有力になりつつあります。 フビライははじめから今回の派兵を「おどし」のためにおこなったので 日本を本格的に侵略するつもりはなかったのではないか・・・「元軍は夜に船に戻って」そのまま帰ったのだ。 だからこそ次の元寇である弘安の役までに何度も使者を送ってきたのだ という考え方です。 そもそも文永11年の10月は 現在の11月ですから台風はあまり考えられません。 元気軍は もともと日本を「おどし」た後に 短い期間で帰るつもりだったのではないかとも思えます。 太平洋戦争と同様 軍事力の差は月とスッポン。フビライが本気だったら日本は元の属国になっていたでしょう。 それにしても鎌倉武士は あの時代に博多まで防戦に行ったのですよ。感謝しなくては。 (壱岐郷土館) (壹岐の風物) ●モニュメント ●はらほげ地蔵 赤い胸掛けをした6体の石地蔵は 海女で有名な八幡浦の海中に祀られており 満潮時は胸まで浸かります。自然石の頭部で 腹が丸くえぐられているので「はらほげ地蔵」と呼ばれています。この由来は 遭難した海女の冥福のため 鯨の供養慰霊のためなどと伝えられています。 ●月読神社 (おまけ) 私が嵐の玄界灘を木の葉のように揺られ 博多(唐津だったかな)から船で壹岐に渡ったのは くしくも 文永の役のあった10月。 こんな立派な船では無かったです。私以外の乗客は皆 船酔い。 何故か陰鬱な旅でした。
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