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出島(でじま)は1634年江戸幕府の鎖国政策の一環として長崎に築造された人工島。 扇型になっており面積は3969坪(約1.5ヘクタール)。 1641年から1859年まで対オランダ貿易が行われ「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定。 出島は1634年から2年の歳月をかけて ポルトガル人を管理する目的で 幕府が長崎の有力者に命じて作らせたのです。 築造費用は 門・橋・塀などは幕府からの出資でしたが それ以外は長崎の25人の有力者が出資。 ポルトガル人は 彼らに土地使用料を毎年80貫支払う形式になっていたそうですが 初代のオランダ出島商館長となったマクシミリアン・ル・メールが交渉し 借地料は55貫、現在の日本円で約1億円に引き下げられたとのこと。 1639年 幕府がキリスト教の布教と植民地化を避けるためにポルトガル人を国外追放したため 出島は無人状態になったのですが その後 出島築造の際に出資した人々の訴えにより 1641年に平戸(現在の平戸市)からオランダ東インド会社の商館が移され 武装と宗教活動を規制されたオランダ人が居住することになり 以後 約200年間 オランダ人との交渉や監視を行った訳です。 原則として 日本人の公用以外の出入りが禁止され オランダ人も例外を除いて狭い出島に押し込められていたようですが 医師・学者としての信頼が厚かったシーボルトなどは外出を許されていたとのこと。 1651年に長崎諏訪神社が勧請造営され 祭礼「長崎くんち」も始められると 中国人と共にオランダ人も桟敷席での観覧が許されそうです。 出島は1883年(明治16年)から8年間にわたって行われた中島川河口の工事によって北側部分が削られ 1897年(明治30年)から7年にわたって行われた港湾改良工事によってその周辺を埋め立てられ 島ではなくなっています。 1996年(平成8年)度から長崎市が約170億円かけて出島の復元事業を進め 2000年(平成12年)度までの第1期工事で 商館長次席が住んだ「ヘトル部屋」 商館員の食事を作った「料理部屋」 オランダ船の船長が使用した「一番船船頭部屋」 輸入品の砂糖や蘇木を収納した「一番蔵」・「二番蔵」の計5棟が完成。 第2期復元工事は2006年(平成18年)4月に完成。 オランダ船から人や物が搬出入された水門 商館長宅「カピタン部屋」 日本側の貿易事務・管理の拠点だった「乙名部屋」(おとなべや) 輸入した砂糖や酒を納めた三番蔵 拝礼筆者蘭人部屋(蘭学館)など5棟を復元しています。 (おまけ) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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