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2020年07月17日
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テーマ:現代俳句(52)
カテゴリ:季語

片山由美子『季語を知る』を斬る(5) 荒井  類


《「文語文法知識の必要性」を言いながら・・・・・・》

片山由美子は、

〈俳句は基本的には文語を用います。五・七・五のリズムそのものが文語から生まれたものだからです。したがって、文語文法の基本を知っておく必要があります。

  汗拭()道を尋ねてをりにけり

道に迷って汗びっしょりになり、背を拭きながら道を尋()いているという場面を描こうとしているのでしょう。問題は「汗ふきつ」です。「つ」は完了の助動詞なので、「拭きながら」という意味にはなりません。接続助詞の「つつ」と間違いやすいのですが、「~ながら」といいたいときは、字余りになっても「つつ」としなければなりません。〈汗拭きつつ道を尋ねてをりにけり〉でよいのです。)(『NHK俳句 今日から俳句 はじめの一歩から上達まで』片山由美子。16「間違いやすい俳句の文法」、92ページ~93ページ。)

 

片山由美子のこの言に従えば、俳句も数多く残した、文化勲章受賞作家の次の句は文法的誤りを含むということになる。

踊り義秀花冷の京を去る      永井 龍男

 また、TBSの俳句バラエティー番組「プレバト」の「春光戦(3)」で決勝まで進んだ千原ジュニアの次の句の「見つ」も文法的には間違いということになり、そのことを元国語教員の俳人・夏井いつきは見落としてしまったということになる。 

ふらここを待つ我が子見飲むコーヒー

《片山由美子のウソあるいは致命的な間違い》

ところがどっこい、辞書の言うところに従えば、永井龍男の句も、千原ジュニアの句も、文法的になんのおかしいところもない。そうすると、引用の〈「つ」は完了の助動詞なので、「拭きながら」という意味にはなりません〉という部分は、片山由美子の「文語文法の基本」にかかわる知識の危うさを示しているということになる。それは、記述としては、ウソあるいは致命的な誤りである。

白雲を出る日仰ぎ緑蔭に      中村草田男

入営や古兵笑ひ雪掻けり      中島 月笠

攻防の類見歩む春帽子      斎藤 梅子

無人駅日向ぼこし列車待つ    関本 曙美

日向ぼこし見極むる手帳の句   岩木 躑躅

見舞妻喰べよと一語マスクし    岸 風三樓

《辞書を引けばわかることなのに・・・》

 (接続助詞)(文語完了の助動詞「つ」から)動詞の連用形に付く。動作の並行・継起することを表す。前が撥音のときは「づ」となる。

② (二つの動作・作用が同時に行われる時に、従属的な方の動作・作用に付ける)…ながら。方丈記「苦しむ時は休め、まめなれば使ふ」(『広辞苑』第六版助詞「つ」の項より)。((同第七版では、六版の「ながら」の部分が「て」となっている)。

① 上の動作・作用が行われると同時に、下の動作・作用の行われることを示す。・・・ながら。(『旺文社古語辞典』の「つ(接助)」の項より)。

 両方の辞書がこの「つ」の用例として掲げる、方丈記第四段の該当部分を左に引用する。

〈身、心のくるしみを知れれば、苦しむ時は休め、まめなれば使ふ。使ふとても、たびたび過ぐさず。>(体は、心が苦しいときには休ませて(または、休ませながら)、気分が満ちているときには、これを使う。使うといっても、酷使するのではない)。現代語訳は筆者による。

〈近世には「雨月物語‐菊花の約」の「あるじと計りて、薬をえらみ、自方を案じ、みづから煮てあたへも、猶粥をすすめて、病を看ること同胞のごとく」など「つつ」とほぼ同意になった例も見られる。)(『精選版 日本国語大辞典(*)』より。)

 *『精選版 日本国語大辞典』は、『日本国語大辞典 第二版』(13巻50万語)から選ばれた30万語を収録している辞典。

 つまり「つ」は、近世においては「つつ」とほぼ同じになったというのである。

  片山由美子の文語文法の基本に関する知識の脆弱性が感じられるのは、この「つ」についてのみではない。

葉ざくらや白さ違へて塩・砂糖   片山由美子

  暗さやや違へてつづく夜店かな   片山由美子

  この二句の「違へて」が文法的には自動詞「違ひて」であるべきことは、前号の拙論(4)で既に指摘した通りである。

 「文語文法の基本を知っておく必要があります」という言葉は、ブーメランのようにご自身にかえってきたというべきだろう。

 

《「西瓜」について見てみる》

 さて、『季語を知る』に戻ろう。

西瓜について、片山由美子は〈夏の季語にしてしまった歳時記もある。〉(傍点は引用者)と言っている。(本書231ページ)。

〈夏の季語にした歳時記〉ではなく、〈夏の季語にしてしまった歳時記〉である。「やっちまった」歳時記というのであるから、片山はそれに対して否定的なのだろう。

「やっちまった」歳時記として片山が意識しているのは『現代俳句歳時記』(現代俳句協会)のことであろうか。それとも『実用俳句歳時記』(辻桃子編)のことであろうか。あるいは、その他の歳時記だろうか。

いずれにせよ、こういうもってまわった言い方をせずに、具体的歳時記名を明らかにすべきだ。万が一にも、特定の歳時記に嫌みや当て擦りをするために文字を費やしたわけではないと思うが、もしそうであるとしたら、立派なご著書が泣きまする。

なお、『現代俳句歳時記』(現代俳句協会)では「西瓜」については「従来の歳時記では秋の季語とされる」と書いている。『実用俳句歳時記』(辻桃子編)には「古来秋季だったが、最近は夏の代表的な食物」とある。

『ホトトギス季題便覧』の「西瓜」の解説には「我が国には江戸初期に伝えられたという。昔から七夕などに供えられ、俳句では初秋」とある(傍点は引用者)。この記述から〈「秋の季の七夕などに供えられ」るから「西瓜」は秋の季語なのだ(A)〉という前提で、以下の話をする。

『現代俳句歳時記』(現代俳句協会)では、「七夕」を夏の季語としているので「昔から七夕などに供えられ」た「西瓜」を夏の季語とするのは論理的整合性のある態度と言えよう。『今はじめる人のための 俳句歳時記』新版(角川学芸出版編)も、七夕(秋)、西瓜(秋)で、整合性はとれている。

『実用俳句歳時記』(辻桃子編)では、西瓜を夏としつつ、七夕は秋である。これは(A)に照らしていうならば、論理的整合性に欠ける態度だ。。

《「西瓜割」は夏の季語で「西瓜」は秋?》

ところで、「西瓜」を秋の季語とする『角川俳句大歳時記』であるが、「西瓜割り」については夏の季語としている。これも論理的整合性に欠けることだと思う。「西瓜」が秋の季語なら、「西瓜割り」も秋の季語となすべきであろうし、「西瓜割り」が夏ならば、「西瓜」も夏とするのが、論理的ななされ方だと思う。

『現代俳句歳時記』(現代俳句協会)では、「西瓜」を夏の季語とし、「西瓜割る」を西瓜の傍題としており、「西瓜割り」を季語に詠まれた句が、例句の一句目だ。

  過酷にして鮮烈に西瓜割り     小堤 香珠

『角川俳句大歳時記』における「西瓜」(秋)と「西瓜割り」(夏)の矛盾については、是非、片山由美子の見解をうかがってみたいと思う。

参考

『広辞苑』第七版 西瓜《季 秋》西瓜割り《季語についての記述なし》西瓜の花《項目なし、言及なし。

『大辞林』第四版 西瓜《季 秋》西瓜割り《季語についての記述なし》西瓜の花《季 夏》

『デジタル大辞泉』西瓜《季 秋》西瓜割り《季 夏》

西瓜の花《季 夏》

『デジタル大辞泉』は『角川俳句大歳時記』と同じく、西瓜(秋)、西瓜割り(夏)という矛盾の内在を許す立場だ。『広辞苑』第七版、『大辞林』第四版は、この矛盾をさけるためか、「西瓜割り」については、季語としての季には触れていない。

《面倒くさい「西瓜」を「逃げた」(?)歳時記も》

『よくわかる俳句歳時記』(石寒太編、ナツメ社)の索引には「西瓜」も「西瓜割り」もない。見出し語として立項のあるのは「西瓜の花」であり、傍題は「西瓜咲く」のみである。

「西瓜の花(仲夏)」の「季語解説」は次の通り。

ウリ科の一年生草。旬は立秋過ぎ頃で秋の季語となっているが今では夏のうちから出荷され、夏のものという印象が強い。/近年の歳時記では、時代に即して夏のものとするところもある。

「西瓜の花」の「季語解説」と言っているのに、中身は「西瓜」という季語の解説になっている。〈近年の歳時記では、時代に即して夏のものとするところもある。〉というのだから、石寒太は西瓜を秋の季語と考えているということか。

西瓜は秋? それとも夏? 西瓜割りは夏だけど、西瓜は秋でいいの? これらの質問に答える「面倒」から「逃げた」構成だという印象を持たざるを得ない。歳時記の編者として、これでいいのか、石寒太。

ちなみに、例句(三句)の季語はみな西瓜で、西瓜の花を使った例句はない。

 風呂敷のうすくて西瓜まんまるし      右城 暮石

 升(のぼ)さんの西瓜好きなりその母も    石  寒太

 西瓜切るわが魂を切るごとく        長谷川智弥子

  (つづく)(文中敬称略)(「鴎座」20205月号)「

 

 <松田ひろむの補足>

芭蕉の「送られつ別れつ」も「行きつ戻りつ」も知らない片山由美子

 助動詞「つ」の用法は完了から、ある動作が並行して行わることに中世に変化した。現代でも使われている「行きつ戻りつ」がその典型である。

(動詞を重ねる基本的な用例)

-

送られ別れ果ては木曾の秋       芭蕉

月の露光り消え薔薇の上     鈴木 花蓑

湯気立ち舞ひ産後の髪撫でやる  中村草田男

満月の鳥獣戯画や入り出で  加藤 楸邨(まぼろしの鹿)

見下し仰ぎ春の女神かな  佐藤 春夫(能火野人十七音詩抄)

花の雲かくれ見え行手かな    阿波野青畝

南風や生れ失せ蟻の城      芝 不器男

スキーヤー伸び縮み雪卍     松本たかし

花筏寄り離れ澱みつつ      中村 苑子

干飯や見え隠れ雀来る      中  拓夫

酸漿を鳴らし花の世出入り    齋藤 愼爾

つ(単独の用例)ながら

葛の若葉吹き切り行く嵐かな       暁台

お涅槃や大風鳴り素湯の味     渡辺 水巴

からからと日は吹き暮れ冬木立   内藤 鳴雪

歌舞伎座の絨毯踏み年忘      渡辺 水巴

打よりて狐括り鳴子縄       尾崎 紅葉

舷に礑と光り和布刈鎌       楠目橙黄子

過ぎし日のことや腋下の汗拭き   岸 風三樓

哄笑に春尽き二人やがて去ぬ 久米 正雄(返り花)「

「柿本人麿」読み松の内   滝井 孝作(浮寝鳥)

仰向き歩み髪結ふ乙女復活祭    中村草田男

春めきし風と覚え急かずゆく    星野 立子

鰹船出でゆく沖はなほ荒れ     山口 草堂

見えぬ一病憎み愛し冬ざるる    角川 源義

面妖に霞める山を出入り     安東 次男(昨)

沙羅の花こゑひそめては刻遣り   岸田 稚魚

雨の餘部死なば死なるる刻過ぎ   塚本 邦雄(甘露)

白朮火を廻し通る祇園茶屋     松本 澄江

帷子や泣き酌みては神ながら    斎藤 梅子

身ほとりにひかりを生み耕せり   古賀まり子

渓音の或は消え梅の花       岩木 躑躅

母を呪へり盥の冷えを踏み当て   齋藤 愼爾

春光に渇き馬は止まらざる   対馬 康子(吾亦紅)

つ(完了の用例)た

大津絵の鬼も汚れ榾あかり        闌更

からからと日は吹き暮れ冬木立   内藤 鳴雪

春深きしづけさ透き楢林      渡辺 水巴

鳰載せてけはしき水となり初め  竹下しづの女

哀れなる法師も見え彼岸寺     会津 八一

雲のゐしあとか楓の花濡れ     水原秋桜子

口とぢて打ち重なり種俵      前田 普羅

魚屑を鴎に投げ沖膾        高田 蝶衣

泉噴く千万の音退け        中村 汀女

寒三日月目もて一抉りして見捨て  篠原  梵

さびた咲き摩周岳けふ雲絶え    大島 民郎

畜生の肉も交へ寒施行       草間 時彦

生くる銭いとしみ投げ社会鍋    林    翔

黍の風妻の方言年過ぎ       飯田 龍太

豊頬の月若竹の穂に乗り      野沢 節子

袋掛花とは見せ江の彼方      下村ひろし

さくら鯛瀬戸にあらがふ脊を見せ  佐野まもる

パンジーの花弁拡げ陽にま向き   小川濤美子

返り咲くその小さきを認め   田中 裕明(櫻姫譚)

以上、完了の「つ」の用例も、句意から「つつ」(ながら)と同じと考えていいと思えるものがある。現代語は断定を避けて、あいまいにする傾向があるからである。

 

西瓜は秋か夏か

 西瓜は、花火と異なり宗教的な盂蘭盆会(秋)と結びついているわけではないので、現在は夏に割り切っていいのだろう。

 七夕に西瓜が供えられたというのも、その季節のものだったというだけで、西瓜でなければならないという必然性はない。

 「西瓜提灯」という季語があるが、各種の歳時記にはあまり採用されていない。「きごさい歳時記」(季語と歳時記の会=代表:長谷川櫂)は晩夏とし、傍題に<瓜提灯>をあげる。<西瓜の中身をきれいに掻き出し、空洞になったところに蝋燭をともすというもの。目や口の形に皮を切って顔に似せたりもする。>とする。ハロウィンの南瓜のようなもの。これも西瓜割と同じく夏休みの遊びである。『季語・季題辞典』(日外アソシエーツ)は「西瓜提灯」を夏とする。

  西瓜提灯中から外を向き笑ふ    後藤 立夫

は、俳人協会の2014年の「俳句カレンダー」の8月にある。つまりは秋であるが、その必然性はない。

『季語別鷹羽狩行句集』は、

  肉赤く西瓜提灯ともされず     鷹羽 狩行(七草)

  提灯の西瓜の坐りごこちかな    鷹羽 狩行(七草)

をあげ、いずれも夏に分類されている。しかし「西瓜」はもちろん秋となっている。

ところがその『季語別鷹羽狩行句集』にない「西瓜割」は、

 足運びそれらしくなる西瓜割    鷹羽 狩行(十六夜)

があるが、それは七夕の句のあとに掲載されている。つまり秋ということになるだろう。ここでも夏秋が混乱している。

七夕は旧暦の七月の行事であるから従来は秋のものとされてきたが、現代では学校や幼稚園、保育園などの行事としては新暦で行われることが多い。しかし、仙台七夕まつりなど、各地の観光行事としての七夕は月遅れの八月七日に行われることが多い。新暦の七月七日は梅雨さなかであるので、天の川を見ることは難しいという理由もあるのだろう。

西瓜と異なり、七夕は現代でも夏のものと断定することはなかなか難しい。

しかし、「西瓜」は前述のように夏と考えて違和感はない。(了)

画像は西瓜風鈴。いかにも夏である。https://item.rakuten.co.jp/kasityo/701216/

 






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Last updated  2020年07月17日 11時19分49秒
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