敗戦-25:占領と解放と食-1
当時(終戦前後)、「国体護持」は日本が日本である為に必要、なる主張は多数派と推察する。 教育の成果だろうか、それとも方便か、「1946年1月1日の詔書」が昭和天皇の本心だとすると、昭和天皇自身は其れほど影響を受けなかった、自分自身が現神人ではないことは自明であるから当然か。 「天皇を以て現御神とし、且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものにも非ず。」ではなかった。 教育と言っても、台湾・朝鮮半島に於いて敗戦後は天皇を国家元首にと主張する者は皆無だろう。 日本でも1935年の「国体明徴に関する政府声明」の主張を否定する者は戦中・戦前から存在し戦後は増加したと考える。 敗戦は此の架空なる観念から大日本帝国の人々を解放する事になった。 大日本帝国の敗北は天皇=現神なる神話を破壊するに十分な力を持っていたし、天皇サイドは此の観念を継続する事は危険と判断、国民が戦中・戦前の天皇制を否定する前に先手を打ったともと思える。 1946年5月19日には「食糧メーデー(飯米獲得人民大会)」が皇居前で行われ、不敬罪での逮捕者が出ている。 「不敬罪」は特権階級が存在する事を示す、天皇・皇族と国民との距離を再設定が必要。 国民は終戦が確定するまでは平和を望むこと(戦争を止めること)を主張できなかった、様々な理由で戦争に反対し捕らえられたり獄中死した者もいる。 「大日本帝国憲法 第13条 天皇は戦を宣し和を講し及諸般の条約を締結す」 開戦・講和を決定できるのは天皇、終戦に手間取ったのは天皇以外の指導層に問題があったのか、「極東国際軍事裁判」では木戸や東條が起訴され刑を受けている、二人は対米英開戦・戦争継続に於いて昭和天皇に極めて近い人物、「昭和天皇独白録」では天皇が信頼する人物として記されている、平沼・松岡については天皇は利用するが好きではない人物として記されている。◇自由の指令(用語解説/HP:日本国憲法の誕生) 反体制的な思想や言動を厳しく取り締まっていた日本政府に対し、1945(昭和20)年10月4日、GHQが、自由を抑圧する制度を廃止するよう命じた指令。正式には「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」という。「人権指令」とも呼ばれる。この指令は、思想、信仰、集会及び言論の自由を制限していたあらゆる法令の廃止、内務大臣・特高警察職員ら約4,000名の罷免・解雇、政治犯の即時釈放、特高の廃止などを命じていた。東久邇宮内閣はこの指令を実行できないとして、翌5日に総辞職した。つぎの幣原内閣では、この指令に基づき共産党員など政治犯約3,000人を釈放、治安維持法など15の法律・法令を廃止した。──〓勝手に独断と偏見〓 「不敬罪」(大逆事件としては幸徳事件・虎ノ門事件・朴烈事件・桜田門事件)の下に行われた官吏による殺人・拷問、官吏の運用に間違いはなかったのか。 「目には目を、歯には歯を」が刑の上限と思うが、未遂や拷問での自白でも死刑となる可能性があった。・旧刑法より 第116条 天皇三后皇太子に對し危害を加へ又は加へんとしたる者は死刑に處す 第118条 皇族に對し危害を加へたる者は死刑に處す其危害を加へんとしたる者は無期徒刑に處す─ 戦後は「朕は爾等国民と共に在り、常に利害を同じうし休戚を分たんと欲す。」 東久邇宮内閣は「自由の指令」を拒否し総辞職(10月5日)した。・「アジア特電/ロベール・ギラン」p156~p161、によると ロベール・ギラン、ジャック・マルキューズ、ハロルド・アイザックスは1945年10月に参謀本部派遣された将校というふれ込みで府中刑務所に米軍の司令部専乗用車で乗り付ける、刑務所側は共産党員はいないを主張、しかし彼等は収容されている共産党員(徳田・志賀等)を発見、共産党員は拷問の傷跡を示し「200人以上の同士が獄死しました」と語った。・「日本国憲法制定の系譜(III)」p255~、p290によると、フランス人記者のギランに日本共産党の指導者が獄中にある事を伝えたのは同盟通信社の安達鶴太郎・「終戦の和平工作と政治犯釈放のころ/証言:日本の社会運動/法政大学大原社会問題研究所」によると 「徳田球一・志賀義雄ら日本共産党の幹部が府中刑務所になお拘禁されている事実を,直接ギラン記者に伝えたのは,藤原春雄を通じて情報を得ていた同盟通信社の山崎早市記者。」