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当麻曼荼羅の由来を伝承のままに組み合わせると
曼荼羅はあまりにも精密に作られており、その当時の日本では制作は不可能と思え 唐から持ち込まれたと推定されている。 遣唐使船をつかって持ち込まれたと推定しているが それは761年に難波に到着した。第12回遣唐使船では無いかと推定している。 その理由については、この舟は藤原清河を迎えるために渤海を経由して行なわれたのだが 安史の乱後の混乱もあり清河の帰国はかなえられず、皇帝の側近の謝時和と 蘇州より南路をつかって、一隻の舟が日本に向かうことになった。 この舟の目的は唐朝の粛宗より、武器類(部品)の補充を求められており、日本でその製造を 行なって、届けると言う作業が行なわれたとの記述がある。 それを積んだ舟は座礁、破損などがあり、結局届けることが出来なかったとある。 問題はここにある。乱で衰えたとはいえ唐王朝、遣唐使には大量の贈り物が下賜されるのが 当然であり、今回は武器製造の依頼までしている異例の事態であり、かつ日本側も実際舟を建造して それを大量生産するという普通では考えずらい 藤原清河と交換にという話どころではない。 ここでこの曼荼羅になってくる。その対価としてこれだけの物唐朝が持っていた宝を 下賜品としてその対価として日本に送ったのでは無いかと考えている。 曼荼羅には天平宝字7年(763年)に当麻寺にはいった記載があったようなので おそらく難波の地あたりで、その部分を付け加えた可能性があり、その制作にも 中将姫が一枚噛んでいた可能性が考えられる。 蓮の繊維から中将姫が一夜にして作られた伝承を自分なりに再構成してみた 伝承にも何かの歴史的な事実があるだろうと考えるからです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.04.18 11:04:18
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