加地
そういうことですね。ところで、キリスト教文化圏を見てみると、今でも土葬の考えが強く残っています。それは最後の審判によって天国へ連れていってもらうときには、魂は肉体をまとっていなければいけないからです。教会は一番神に近いところですから、王侯貴族は教会の中すなわち地下室に遺体を納めました。
| 八木 |
キリスト教も一九六〇年代にローマ法王庁が火葬を許可してからは、火葬も行われているようですね。
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加地 |
それは葬儀の手段として認めただけであって,墓は依然として必要です。キリスト教徒が散骨してしまったら、天国に行けなくなりますから、散骨は絶対に理解できない葬法です。
「葬送の自由の会」はキリスト教の墓に対しては特に触れていません。「自然葬」をすすめるならぱ、諸宗数を超えて散骨を拠培するべきですが、キリスト教やイスラム教、ユダヤ教など一神教系の宗教に対して墓はいらないと納得させる論理を持たないかぎり、自然葬に普遍性はないですね。
葬法を考えるときに、「まず死生観ありき」ということが理解されていないからで、親鸞の墓の否定を弟子たちが引継がなかったのも、日本人には古来から伝統杓な死生観が脈々と続いているからです。祖先祭祀の精神があったからこそ、代々墓をつくり招魂儀礼を行ってきたわけです。明治になろうと平成になろうと、そしてもちろんイデオロギーなどには関係なくです。これは日本人にかぎらず東北アジア人の感覚なのです。
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八木 |
山折さんがシンポで「自分は自然葬にしようと思ったら、息子さんに、彼岸になったらどこへ行けばいいんだ、と反対された」と云ってます。この息子さんの感覚こそ日本人の典型的な死生観だと思います。つまり山析さんの肉体は生前も死後もご本人のものであると同時に、山析さんだけのものではないという思いがあるのだと思います。
私が「お父さん丸坊主にしてみようかな」と云ったら、「やめてよ、僕のお父さんが丸坊主なんていやだ」と云われだことがあります。息子にとって父親である私の肉体は彼のものでもあるのですね。我々一人一人は確かに個体として存在していますが、それは決して何のつながりも持たずバラバラに存在するということではありません。
我々は親から子へ先祖から子孫へという生命の連続性の中に存在していますから、このような感覚があって当然だと思うのです。戦前「身体髪膚これ父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始めなり」(孝経)の感覚が広く普及していました、茶髪ピアスの若者への名言ですね。
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加地 |
私の家内の母の臨終間近のとき、医師が心臓マッサージをパッと止めて電図を確認するのです。そういう動作が何回かあり、要するに家族が「もう結構です」と言うタイミングをつくっていたわけです。しかし、私にはどうしてもその一言が云えません。
そこで家内を廊下に連れ出し、血のつながった母親だから、辛いだろうけど云ってくれと云いました。それで戻って家内が「もう結構です」と言ったら、心臓マッサージを止め、その瞬間臨終となりました。私は家内の母親とは血がつながっていないから、私が言えばなにか「殺人になる」という感じがしたのです。
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八木 |
それは身体だけでなく、遺骨になってもそんなに変わりません。例えば、飛行機事故にあった場合、日本人は事故現場に一生懸命遺骨を集めに行きます。また、今でも先の大戦の遺骨取集団が、毎年南方に出かけて行っていますから、日本人の遺骨に対する執着は非常に強いといってよいでしょう。散骨のように、遺骨がただの物質だというとらえ方は抵抗感がありますね。
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加地 |
「自然に帰る」といって、散骨して「自然に帰った。ハイ、さようなら」という感覚は日本人にはありません。この空間のどこかに霊魂がいると信じて、霊魂を呼び戻す儀式を続けてきたのは、仏教だけでなく神道も同じです。遺骨・遺灰を撤いてしまったら、魂・魄はどこに、あるいはどこから帰ったらいいのか…。
死者に対する儀礼の存在は、入間が他の動物と違うということの証明でもあります。ウシやヒツジなどの動物は、同類が死んでも何もしない。これがまさに「自然葬」です。人間が死者に対する儀礼を失ってしまったら、この世は禽獣の世界になってしまいます。
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八木 |
ラフカディオ・ハーンは日本人はあたかも祖先が生きているかのように祖先と接しながら生きている。見守られているとの思いの中で人生観を形成していると指摘しています。
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加地 |
キリスト教やユダヤ教における契約の観念は、神の規則や規律に従うという一神教の根本的な教えだと思います。それに対して、日本人ひいては東北アジア人にとって規律のもとになっているのは、「家族」なのです。
キリスト教文化圏では「家族」が壊れても、神との関係や社会的契約がありますが、にもかかわらず、キリスト教徒は「家族」の生活をいかに守るかを非常に意識しています。そうしなければ「家族」を保てないのです。そこまでして守りたい何かが「家族」にはある。
ところが日本では意識しなくても大丈夫だ、家族は生命の連続を示す神聖なものだと思っているから、保とうと努力もしていません。それでいいのですが、一部の人たちほそれを壊そうとしたりしています。しかし、もし「家族」を解体してしまうと、日本には規律の根拠に替わるものが実は何もないのです。
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雑記帳 より
続く
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