テーマ:中島らも(44)
カテゴリ:藝能 娯樂 競技
さて、いよいよ本題にはいる。 中島らもの墓を作って欲しいのだ。 中島らもは生前、自分が死んだ時のことについていくつか書き残している。 「目玉、内臓、せきずい、使えるところはみんな他の人のために使ってほしい。残った部分はミンチにして海に投げ込み、魚のエサにしてほしい。 お墓はいらない。金がムダである」(固いおとうふ) 「死んだらそれで終わり。鳥葬だろうが、なにだろうが、おれはもう関係ないんだから」(異人伝) 「実際に待っているのは『無』。 おれはそう思っているのだが、一方で別な考えも持っている。 ユングの言ってる『集合無意識』ね。あれをもっともっと拡大解釈して、『地球生命体の総合意識』みたいなものがあって、成層圈から地下何十kmくらいまでの分厚さで地球全体を包んでいる。個体生命は死ねば肉体を放れて、その集合意識に帰っていく。『個』から解放される。新しい生命はその集合体から個体に移る」(異人伝) 故人の遺志により墓は作らず遺骨は散骨すると伝えられているが、著作の中では「お墓はいらない」とは言っていても「散骨しろ」とは言っていない。 また、墓がいらない理由は「金がムダである」からであり、それほど積極的な理由とは思えない。 そもそも墓というのは故人のための物であると同時に残された人々のための物でもある。奧さんの美代子さんはクリスチャンだそうだからお墓は欲しいはずだ。僕は神も仏も信じてはいないのだが、それは頭の中の話であって、お盆に田舎に帰ったらやはりお墓参りをする。 中島らもも「実際に待っているのは『無』」と言っているように無神論者のようであるが、反面「個体生命は死ねば肉体を放れて、その集合意識に帰っていく」そして「新しい生命はその集合体から個体に移る」といった輪廻転生に似た考えも持っていた。 一年に一回、お盆の時だけでも集合意識を離れてお墓に帰ってきて貰いたいものだ。そしたららもさんが好きだった「国菊」と「フォアローゼス」をお墓に撒いてあげよう。集合意識はお酒は飲まないだろうから。 (余談だが「地球生命体の総合意識」はクラークの「幼年期の終り」を連想させる)
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年05月19日 05時23分22秒
コメント(0) | コメントを書く
[藝能 娯樂 競技] カテゴリの最新記事
|
|