テーマ:歴史(46)
カテゴリ:歴史 傳統 文化
紀元節 を契機に 古事記 を読み始めたのだが、つい最近知ったのが「稗田阿礼=藤原不比等」説。 藤原不比等は齋明五年(西暦六五九年)生まれ、養老四年(西暦七百二十年)没。 中臣鎌足、のちの藤原鎌足の次男。母は車持与志古娘。天智天皇の御落胤と言う説もある。名のフヒトには「史」の字をあてることもあった。 大宝律令の制定、日本書紀の編纂に携わる。養老律令に着手するも完成を見ず齋明五年六十二歳で薨ずる。 斬る!時事問題のトリビア・コラム! 第三十三号「日本書紀撰上」 新暦と旧暦との違いはあるが、元正天皇(女帝)の養老四年(西暦七百二十年)五月二十一日は、日本書紀が舎人親王らにより元正天皇へ献上された日である。 藤原不比等は和銅四年(西暦七百十一年)秋であったか、元明天皇(女帝で元正天皇の生母)より、史書(日本書紀)の完成はまだか、と問われたとき、まだでございますと応えたものの、後味のわるい思いであったかと思われる。 というのも、史書編纂つまり修史には不比等は、地味ながら携わってきた経緯があったからであり、それはまた、実父の天武天皇の期待を担うものでもあった。 が、修史は依然として途上にあり、やはり天武天皇の皇子で、不比等を継ぐ形で今や修史に没頭している観の舎人親王に尋ねてみたのであろう、まだ十年近くはかかろう、ということであった。 しかるに、元明天皇には今すぐにでも史書が欲しい、恐らくは首親王(孫で十一歳。のちの聖武天皇)の教育、さらには親王の近辺に侍る女官らの教育、教養のために必要であったのであろう。 であるのに、まだ十年もかかるというのでは当座の役に立たぬ、と不比等は感じ、忸怩たる思いであったことであろう。と、その瞬間、不比等の脳裏に天啓のように閃いた一つのことがあった。 十年前に大宝律令を作り、昨年には今ここにこうしている新京の平城京をも作った(正確には造営中)が、その一連の国家事業の一環として、日本書紀をも作っているのであったが、それとは別に、十分ノ一程度の規模で、別に史書を編み、急場の間に合せとしようと考えたのが、その閃いたものであり、古事記編纂の始まりであった(と考えて大差ない)。 その筆録者として文武両道に秀でた太安万侶を充て、若い頃の修史の経験を活かしては不比等自ら語り部すなわち口述者となった。 が、不比等という名を表に出すと、盟友といってよい舎人親王との間の見解の相違も明らかとなるなど、問題も出てこようかと危惧されたので、それで仮名を用いることとした。 仮名を用いるとしても、あとで誰のことやら分からなくなってしまっても難儀なこともあろうと考えた不比等は、口述者は不比等と探索できるような名としておこう、探索できる手掛かりを残しておこうと考えたのでもあった。 別に史書をといっても、不比等の気分では、肩肘張らない気楽なもの、つまり稗史といってよい程度のものであった。それで改めて《稗史》という言葉を思い浮かべたのであったが、そのとき、またも不比等の脳裏に閃くものがあった。稗史を仮名の解明の手がかり、ヒントにしてはということであった。 それで考えついたのが《稗田阿礼》という名であり、稗史つまり《稗田阿礼は史なり》と解け、ということであった。稗史という二文字は《稗田阿礼は史》の略、すなわち最初の文字《稗・・・》と末尾の文字《・・・史》とが呼応して、稗史の口述者は史(不比等)であることを示している。なお不比等を史と記すのは懐風藻にも例がある。 また稗田阿礼が不比等であるといえる根拠の一つが、すでに古事記の序に暗示されている。すなわち天武天皇には崩ぜられたみぎり、稗田阿礼は二十八歳であったと特記されている。天武天皇崩御の朱鳥元年(西暦六百八十六年)、斉明天皇五年(西暦六百五十九年)生まれの不比等も二十八歳であった。 ちなみに相棒の太安万侶の年齢はといえば同序に記載はない。従って、二十八歳という年齢を示すことにより稗田阿礼は不比等なりということを、知る人ぞ知る・・・知る人をして知らしめたのであろう。 姓は丹下、名は左膳ではないが、姓は稗田、名は阿礼であったが、姓の稗田は解明できたとして、名の阿礼の意味せんとするところが詳らかではない。 あるいは、阿というのは阿諛追従の阿であり、礼は礼節などの礼であるところより、まったく正反対なもの、すなわち二文字を合せて《支離滅裂(トリビア)》統制の取れていない稗史・・・ということを意味しようとしたのでもあろう。 半年ほどで古事記は書き上げられたのであったが、その古事記が完成した時点で、日本書紀の方は、結果的に、まだ八年を要する時点にあった。が、それは目論みもなしに八年かかったというわけではなく、ここまできた以上、舎人親王には六十年に一度の辛酉(西暦七百二十一年)つまり革命の年という年回りが視野に入ってきたのでもあった。 革命の年である辛酉の前年の庚申(西暦七百二十年)に、日本書紀を完成させれば、次の年の辛酉には、完成した日本書紀を機縁に、何か大きいことが起きるのではないか、と考えたのでもあろう。というのも、それには先例があったが、たとえ先例がなくとも、誰にとっても充分に魅力的なことであった。 百二十年前の庚申(西暦六百年)の年に、聖徳太子には二十八歳となる翌年の辛酉(西暦六百一年)つまり革命の年に期待しては、遣隋使を派遣したのであったが、その故事に舎人親王は習ったものであったのであろう。 しかし、聖徳太子の迎えた辛酉と同様に、舎人親王の迎えた辛酉にも期待したほどの特段のことは起きなかった。ただ前年の庚申(西暦七百二十年)八月に不比等が行年六十二歳で長逝するということがあった。 日本書紀が撰上されて二カ月あまりがたった中秋八月、不比等は亡くなったが、手塩にかけてきた日本書紀を眼にすることができて、ともかく満足したことであろう。以て冥すべしであった。
日本の修史事業は聖徳太子、天武天皇、不比等、舎人親王と繋がってきたといえようが、その一大金字塔が日本書紀であった。 その日本書紀の最大の特徴はといえば、多少の例外はあるが、六十年を単位として仁徳天皇までの天皇紀年の水増しにあり、結局、六百六十年水増しているところにある。 これを聖徳太子には着想され、不比等が熟考し、舎人親王あたりが実行に移した、というようなことであったかと思われる。 日本の神話より お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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