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テーマ:政治について(20230)
カテゴリ:健康・生活
明治政府は、日本語に代え、英語またはエスペラント語を公用語として採用することも選択肢にありました。
政府自体「岩倉欧米視察団」のメンバーで固められており、日本の伝統を踏み躙り、欧米化路線を推し進めていたのですから、当然の成り行きではありました。 幸い、この政策は採り入れられることなく今日まできています。 しかし、このメンバーの末裔である「官僚」は、この政策を決して忘れることなく、彼らの中で受け継がれ、やっと、実現への道を開く「足掛り」を確保したようです。 それこそ「小学生から英語を教える」という「政策」です。 私は、外国人と「会話」をして「外国を理解する」するために「英語」は必要な手段だと確信します。 それと同時に、いや、それよりも、日本人が「日本を理解する」ことなしに、外国人との「会話」自体が成立しません。 日本人同士に「会話」が成り立つのは、お互いが「日本語」を話すからではなく「日本人という共通の基盤である習俗・慣習・生活習慣」を共有しているからです。 ですから、自分・個を意識することなく「主語が不在でも」理解し合うことができます。 逆の立場から見ますと、日本人は、これらを「共有」していない「外国人」との会話は、得意では有りません。 その理由は、日本の国境線が海であり、陸続きの国境線がないため「外国との接触」が無かったに等しいからです。 外国人、特に欧米人は、常に「陸続きの国境線」を持ち、その国境線は不変ではなく、絶えず、日常茶飯事として「異国」「異民族」との接触がありました。 ですから、彼らは、常に自民族・自国を主張する必要に迫られており、幼い頃から、そのための躾・教育・訓練を受けています。 具体的に言えば「自国・自分の民族の伝統・歴史」を熟知しています。 つまり、欧米人は「百戦練磨」の「会話・折衝の達人」です。 一方、日本人は歴史的に「外国人との接触少ない」民族であり「会話がなくても通じる」生活を謳歌してきました。 現在、日本人は、国境を意識して、外国との「会話」が必要になっています。 少なくとも、日本人が「話をする」外国人は「自国と日本」のことを知っています。 ですから、日本人が「日本国・日本人の伝統・歴史」を知っていなければ、この「会話」は成立しません。 日本人にとって「英語」「中国語」などは、「会話のための手段・機械」に過ぎません。 「会話」をするために必要なのは「手段・ハード」ではなく、「自国の伝統・歴史」という「ソフト」です。 つまり「ハード」という「技術的なこと」は専門職の通訳に任せることが賢明です。 会話をする人は、この「ソフト」を学習・咀嚼して我が物にして、これを武器として、外国人との「会話という戦い」に望まなければなりません。 日本では、日本の代表が、国際的な場において「英語」で演説したということが「カッコいい」というように解釈されます。 一方、これを聞いている欧米人は「黄色い猿が、ネクタイを締めて、英語のようなものを口にしている、単なる猿真似!」位にしか受け取りません。 更には「しかし、この猿、お金をもっているから無視もできない」から、今のところ付き合って挙げてもいいか、これが正直な心境でしょう。 少なくとも、日本国の代表が外国で「演説」「会談」するのであれば、日本語で表明し、あとは通訳に任すべきです。 更には、外国人こそ「猿語」じゃない「日本語」を学ぶようにすれば良いのです。 これぐらいの「気概」がないと、欧米の国々から舐められてしまいます。 さて、日本人は、戦後、占領軍に「日本の歴史と伝統」をすべて否定・破棄され、その洗脳作戦は今日も継続されています。 「戦後」「洗脳」は終わっていません。 これを克服して、自らの歴史・伝統を取り戻すことが急務です。 つまり、日本人一人一人が、自分の「自立」を目指し、「地力」を確保するために、自らが、もっと日本語を知り、日本の歴史・伝統を知ることが必要です。 日本国および日本人の歴史と伝統に誇り・自信を持っていなければ、外国人との「会話という戦い」は成立しません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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