テーマ:徒然日記(22833)
カテゴリ:Politics
1960年国会議事堂前で、文学部学生の樺美智子女史が圧殺された際は、東大駒場自治会委員長であった西部邁氏は、各教室を駆け回り、抗議デモを呼び掛けて嘗て無い程の学生運動の盛り上がりを見せることに成功しました。
その頃は、既成の政党の指導を受けることの無いノンセクト・ラジカルで平和的な抗議運動で、後年の武闘派闘争とは違い、暴力的示威行動はありませんでした。 彼は、それとは一線を画していたので、暴力的な安田講堂占拠闘争には沈黙を貫き、東大教授辞任と共に、「君子は豹変す」と、新保守派と論客として、世間に再登場したのです。 彼の思いは、所謂「祖国愛」に近いものだったのでしょうが、保守派の対米追従・自由資本主義とは違ったもので、安倍政権に受け入れられることは無く、又失望を味わうことになってしまった様でした。 カミュが言う如く「思想に死ぬ」と言うことは普通あり得ないことですが、今回は「自分の人生は矢折れ刀尽き」だと、書くことも出来ない体の変調も悲観しての覚悟の自殺だったのではないかと思わざるを得ません。 保守派の論客で知られ、「朝まで生テレビ!」などでも活躍した西部邁(にしべ・すすむ)氏が1月21日、東京都大田区の多摩川で自殺を図り、溺死したとみられる。河川敷で、遺書が発見された。享年78才。 西部氏は東大在学中、東大自治会委員長として1960年安保闘争で指導的な役割を果たした。1986年に東大教授に就任したが、1988年に辞任、その後は新保守派の評論家として活躍、代表的な保守論客として論壇を超えて知られる存在に。2014年ごろまで、安倍晋三首相とも会食した。 2014年に妻が他界。その後は自身の死への思索を深め、著作などでも言及する機会が増えていた。昨年12月刊行、帯に「最期の書」と書かれた「保守の真髄」(講談社)は娘の口述筆記で書き上げ、「78才にして神経痛の為、書記を全く出来なくなった」と記し、後書きに「僕はそう遠くない時機にリタイアする。その後は、僕のことは忘れて人生を楽しんで欲しい」と娘に語り掛け、担当編集者に礼を述べるよう記すなど、出版前の「死」を示唆。 長く主宰した論壇誌「表現者」も昨年、顧問を引退。近年は周囲にも自殺の可能性をほのめかす発言をし、翻意を求めても覚悟を固めた様子だったと言う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.01.22 11:29:51
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