近頃、直属の上司だった先輩が、40年前の苦労話をWordで調製してメールしてくれましたので、興味深く拝読することになりました。
その開発した製品を米国に売り込んで来いと言うことで、1979~1983年の4年間、家族帯同で駐在することになりましたのは、家族にとっても大変な出来事でありました。
私だけでなく、知人のいない異文化での生活ですから、家族にとっても慣れるまで大変でしたが、その頃は「アメリカ第一主義」ではなく、外国人を受け入れようとする機運もありましたので、何とか駐在生活を乗り切ることが出来たのでした。
幸いなことに、業務協定していた米国企業の助けもあって輸出契約にこぎ着けて、何とか使命を果たしての帰国となり、帰国後もその輸出工事の面倒を見る立場になりましたのは致し方ありません。
この写真は、工事完了後、現地に派遣した技術指導員2人と撮ったものですが、私が40才代前半、彼等が30才代後半で、働き盛りの頃でした。
彼等は、契約上約束した技術指導員スーパーヴァイザーでしたが、現地の工場で労働者に溶け込み、信頼と尊敬を克ち得たのですから大成功だったのです。
業務と言うものは、製品だけでなく、担当する人材に依って成否が分かれると言うことが実感出来ましたし、彼等の内一人はその後部門長となって活躍することとなりましたのは嬉しいことでした。