原爆許すまじ2009
昨年も同じテーマでこのブログを書いたが、もう1年経ってしまった。今年は、アメリカのオバマ大統領がプラハで核兵器廃絶宣言をしたこともあってか、広島の平和祈念式典のほうも何かと注目されていたように感じる。ただ、この問題の一番肝心な点は、核兵器の開発や実験自体も大きな問題であるが、それを実際に使用したという行為の犯罪性だ。しかも、原爆の投下は戦場、軍港、基地などを狙ったものではなく、一般市民の暮らす都市部へのものだったのだ。広島と長崎に、違うタイプのものを2回も。この行為が、果たして本当に正当化できるものであるのかどうか、アメリカが「正義の代弁者」であるかのように本当に振る舞えるかどうか、ということなのだ。そして、時が経過すればするほど、アメリカの原爆投下がれっきとした戦争犯罪であって、いかなる理由を持ってしても正当化できる行為ではなかったことがハッキリしてくるだろう。アメリカのネバダ実験場だけではなく、多くのアメリカ人や、また世界の少なくない人々は、核兵器は日本の戦争行為を終わらせるための正当な手段であったと思っているだろうし、俺もまた子供の頃は、社会の授業などで「中国や韓国にひどいことをしたのだから、やむを得ないことだった」などという感想を抱いていたものだ。だが、言うまでもないことだが、戦争時においてさえ、人は何をやってもいいということにはならない。戦争は、一般に兵士同士の戦いであって、市民を巻き込んではならないということになっているし、敵を捕虜として拘束した場合にも、拷問等の非人間的な行為で扱ってはならないことになっている。また、毒ガス兵器なども、現代の戦争においては一般に禁止されているのだ。つまり、戦争には戦争なりのルールがあるということだ。また、人を残虐なやり方で殺害する(例えば、ギロチンで首を切る、皮膚の皮を剥ぐ、人体実験で使用する、拷問にかける等々)ことは、戦争時においてさえも禁じられている。(このあたりのことは、ハーグ陸戦条約やジュネーブ条約などの戦時国際法を参照せよ。)一般的に言って、戦争行為自体は、昔から外交の一手段として用いられていたこともあり、またいついかなる形で他国に侵略されるか分からないという意味から言って、起こり得るものである。当然、戦争は可能な限り回避されるべきであるが、危機的状況というのは起こり得るし、戦争に訴えてでも戦わねばならなくなることは、残念ながらあり得ることと考えておかねばならない。だが、その際においても、どのような方法で、どのような武器を使い、どのように戦うのか、ということは常に問われ続けるのだ。そういう観点から、原爆投下を考えると、一般市民を狙った、タイプの違う核爆弾を投下する必要が本当にあったのかどうか、かなり疑わしくなるだろう。当時、小笠原・硫黄島、沖縄戦で数多くの犠牲者を出した日本にとって、降伏はもはや時間の問題であったと言われている。いや、仮に、あのままズルズルと戦争が長引いていたとしてさえ、原爆投下を市街地に落とす必要があったのかどうかは大きな疑問である。沖縄と小笠原方面を押さえたアメリカは、完全に日本本土を制圧できる状態になっていたからだ。「戦争の早期終結」と「市街地への原爆投下」とを、論理的に結び付けられる必然性はどこにもない。戦争自体が大きな問題あるのは言うまでもないが、原爆投下はれっきとした戦争犯罪なのだ。