浅草花川戸町七軒店
豚鼻の儀十の巻 3
桂馬のふんどし、両取りときましたか、そうは烏賊(いか)の睾丸(きんたま)ですよ、沈香も焚かず屁もひらず、じっと、嵐の過ぎるのを待ちますか、でもね、旦那、屁をひって尻の窄めかたが、間違ったんじゃありませんか、臭え、臭え、悪事は臭いますよ、ぷんぷん臭いますよ、旦那、逃げ切れるもんじゃありませんからね、、、
天保12年、南町奉行鳥居耀蔵は、質素倹約、奢侈な風俗の取り締まりの天保の改革の触れが出るや否や、牢屋見廻り同心の鬼塚千十郎を隠密同心に引き上げ、探索にあたらせた。
鬼塚千十郎は剣の腕も立つが、他の同心とは馴染まぬ孤独で暗い性格の男で、取り締まりには容赦のない冷たさのため、町民から嫌われ、定廻り同心から、牢屋見廻り同心に格下げされていた人間だった。
その鬼塚千十郎を隠密同心に格上げした鳥居耀蔵の狙いは明確だった。
「鬼塚、何をやってもお構いなしだ、とにかく、厳しく江戸の町を取り締まれ、逆らう輩は切り捨て御免だ!」
と、発破をかけ、江戸の町の取り締まりに狂騒させた。鬼塚千十郎は躍起になって、江戸の町を駆け、
遊所、茶屋、料理屋、貸し船、湯屋、をはじめ、いたるところで、質素倹約、奢侈な風俗の取り締まりの口実をつけて、町民をなぶり、虐め、縄をかけ、逆らうものは切り捨てた。
「ひでえことをしやがる、あいつには人間の血が通っていねえ、」と、同心仲間からも訝しがられたほどで、町の人間からは、鬼同心と呼ばれた。
南町奉行鳥居耀蔵は、十二代将軍徳川家慶と老中水野忠邦が発した天保の改革を強力に推し進める必要があった。集団が動き出し、勢いをつけさせためには、鬼塚千十郎のような、狂気に近い突破力が組織には必要なことを鳥居耀蔵は心得ていた。
千十郎の容赦のない取り締まりのおかげで、南町奉行所の天保の改革に拍車がかかったのも事実であった。狙い通り、庶民の味方面して、緩く甘い取り締まりの北町奉行遠山影元の評判は悪くなり、いつの日にか、老中の席に着く野望を抱く、鳥居耀蔵の幕閣内での評価は鰻登りであった。
だが、過ぎたるは及ばざるがごとしの格言があることも忘れ、鬼塚千十郎は庶民の生活を取り締まるだけでは飽き足らず、大店の裏で蠢く、不正撲滅にまで手を伸ばし、不正を暴こうとしていた。
眼をつけたのが、日本橋の幕府御用達の両替商備前屋である。両替商備前屋は旗本、御家人はもちろん、奉行所の与力同心にまで金銭を融通していた大店である。その備前屋が裏でしている悪巧みのに鳥居耀蔵が加担していた。
不正な高利で金貸しをし、借金で首の回らくなった、商店をただ同然で手に入れ転売し、返済できない金を貸して、旗本御家人の株を奪い、売買する。奉行所内の誰が借金をしているのか、どこの大名が金を借りているのか、鳥居耀蔵はその秘密を巧みに利用しながら、奉行所内で力をつけていった。言うまでもないが、備前屋は鳥居耀蔵にとって、重要な資金源でもあったのだ。
鳥居耀蔵は隠密同心鬼塚千十郎に、備前屋から手を引くように諫めたが、暴走馬になった鬼塚は聞き入れなかった。飼い犬に手を噛まれた恰好の鳥居耀蔵は、下谷の屋敷に鬼塚千十郎を呼んだ。
「鬼塚、そちはよう働いている。鬼とまで言われておるそうじゃのう、南町奉行の手本じゃ」まずは、ほめて煽てる、鳥居耀蔵の駆け引きの始まりである。
「はっ、しかし、まだまだ、江戸の町は泥水で汚れております。清流になるまで、手は緩めません、、、」
「うむ、よい心がけじゃ、不正に遠慮することはない、構わずにやれ、そこで、もう一つ、大仕事を頼む、悪の枢軸、賭場の元締め本所の熊五郎一家を潰してもらいたい。既に、調べはついている、本所緑町ある藪蕎麦屋の九兵衛という男を訪ねよ、その男が知っている」
「はっ、しかと、受けたまりました」
牢屋見廻り奉行から隠密同心に格上げしてもらい、鬼塚千十郎が江戸の町を風を切って走れるのは、南町奉行鳥居耀蔵のお陰である。命令に逆らうことはできない。
だが、それが、梯子をかけて、煽てて、登らせ、外す、鳥居耀蔵の陰謀術策の一つであった。もう、鬼塚千十郎の突破力がなくとも、、天保の改革は進みだしていた。鬼塚千十郎の役目は終えた。まして、鳥居耀蔵の資金源である、両替商備前屋に手を突っ込んで、その手を引っ込めないのでは話にならなった。
奉行、与力、同心たちはみな、自分の手足になる、岡っ引き、下っぴき、密偵を自費で抱えていた。それらの駒を動かすのには金が必要だった。賄賂、付け届け、袖の下、見逃し料、は必要悪であった。その金がなければ、奉行所の仕事は動かない。江戸は悪の野放しになってしまうのだ。
南町奉行鳥居耀蔵とて同じであった。江戸の町のあちこちに密偵を放って情報収集をしていた。藪蕎麦屋の九兵衛もその一人であった。九兵衛は甲賀忍者の末裔であった。
隠密同心鬼塚千十郎の消息がぱったりと途絶えたのは、鳥居耀蔵に言われて、本所緑町の藪蕎麦屋九兵衛を訪ね、酒を口にして、眠りについた時からである。
豚鼻の儀十に与えられた密命は、褌に残された臭いをもとに、江戸の町の中から、行方をくらました、
その鬼の隠密同心、鬼塚千十郎を探し出すことだった。
だが、、探索は難航し、もう、二月が過ぎ、行き詰っていた。隠密同心の身分を捨てて、鬼塚千十郎が江戸から、いなくなることは考えにくかった。江戸の町のどこかにいれば、死んでさえいなければ、必ず探し出せるはずであった。だが、伝蔵の草履の裏の臭いと竈の話を聞いて、豚鼻の儀十の鼻はぴくぴくと動きだしていたのである。
(つづく)
作:朽木一空
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