カテゴリ:読書
一連の小沢一郎氏の問題を巡る報道では、検察の無理筋の捜査と、それを一方的に報道するマスコミの小沢氏への攻撃の姿勢の異常さが目につく。このことは、それ自体がおかしいと感じるものだが、もっと深いところでは、民主党が政権を取ったことでいったい何が変わっているかと言うことが象徴的に現れているために起こっているのではないかとも感じる。
先の総選挙では、有権者のほとんどが自民党に嫌気がさして、自民党を撤退させるために民主党に投票したのだが、意識するとしないとにかかわらず、民主党を選んだということは、それまでの日本の政治を根本から変えることになってしまったのではないだろうか。それを解説する素晴らしい本が、宮台さんと福山さんのこの共著であるように感じる。これを導き手として、民主党政権が誕生したことの意味を今一度考え、その上で再度小沢氏の一連の問題を見直してみたいと思う。 宮台さんはまえがきの中で、バスの運転手と乗客を、政治家と国民にたとえて今までの日本の政治と、これからの日本の政治の違いをまず説明している。これまでの日本は、高度経済成長の中で、右肩上がりに豊かになっていった経験があった。そのような状況の時は、バスがどこへ行こうとも乗客は満足のいく場所だと感じられた。乗客は、目的地をすべて運転手に「お任せ」して全く支障がなかったという、運転手・乗客ともに幸せな時代を過ごしていた。 しかしある時期からお金がなくなってきたりして、目的地へ到達するだけのガソリンがなかったり、目的地だと思ったところが、実はとんでも無く荒廃した場所へ行き着いてしまったりするような、運転手の間違いが目立つようになってきた。このままでは、乗客は自分たちが転落して見捨てられていくのを黙って我慢するしかなくなってきた。もはや「お任せ」ではすまなくなり、運転手に対して目的地を要求しなおしたり、行き方に口を出したりするように、「監視し文句を言う」必要が出てきた、というのが宮台さんの解説だった。 キーワードは、「お任せ民主主義」から「参加民主主義」へと転換すると言うことになるだろうか。「お任せ民主主義」というのは、実は形式的には民主主義の形をとっているものの、本当の意味での民意が反映しているのではなく、多くの一般国民よりも優れていると考えられているエリートたちが、自分たちの判断でよかれと思う方向を選んでいたというものだった。このエリートたちの優秀さが、結果的にも現れていた時代は、「お任せ民主主義」に失敗は少なかった。だが、違う方向での優秀さが必要になった時代は、かつて優秀だったエリートたちが、結果的に正しさを示すことが出来なくなった。 今の日本は、試行錯誤的に民意の公約数を集約できなければ、一部の利益を代表する人間たちの暴走によって、新たな時代に立ち向かえなくなる危機を迎えてしまった。国民の一人一人は、自分の周りの狭い世界のことしか分からず、全体を見通して日本の国をどうするかというような、かつてのエリートのような思考は出来ない。しかし、国民一人一人の利害が正しく反映されるような仕組みを作らないと、もはや誰も全体を正しく把握できる人間がいなくなった今は、誰も正しい方向を示すことが出来なくなった。個々の人間は間違っていたとしても、その集約が間違いを少なくするように変えていくことこそが、これからの日本に必要なことで、だからこそ民主党が選ばれたことに意義があると受け止めた方がいい。古い自民党では、また「お任せ民主主義」に逆戻りしてしまう。このような基本姿勢をもって、宮台さんと福山さんの提言を考えていこうと思う。 具体的な考察は、もう少し読み込んでからにしようと思うが、今を考える上でこの本はかなりエキサイティングに迫るものがある。今こそ読むに値する本だろう。宮台さんと福山さんがわずか2ヶ月でこの本を急いで出したという理由がよく分かる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.01.21 09:28:43
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