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真理を求めて

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2012.04.29
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夢というのは、まだ現実化していない空想で、頭の中に存在している。これは「想像」という現象をどう捉えるかと言うことでその理解が変わってくる。僕の尊敬する三浦つとむさんは、「観念的な二重化という言葉で「想像」を捉えていた。「想像」は、「現実」の世界と「想像」の世界と、世界が「二重化」するところに本質を見ていた。

この世界の「二重化」は自分自身の「二重化」ももたらす。現実の自分と、「想像」の中の観念的な自分と、自分が「二重化」する。これを「観念的な自己分裂」と呼んでいたように記憶している。

さてこの二重化した世界を見ていると、現実の自分の他に、未来のあるべき姿の自分というのを見ていることになる。ここに夢が自分を駆動するエネルギーとして働く根拠を見出すことが出来る。安冨さんは、夢としての想像は具体的に見る必要があると書いている。

具体的に見ている夢は、二重化した世界でも生き生きと躍動しているだろう。そうすればエネルギーとしてもパワーが大きくなるのではないかと思う。安冨さんは、抽象的な夢は良くないとも書いている。その一例として「東大に入る」という夢を上げているのだが、僕はこれには最初違和感を抱いた。「東大に入る」という夢も十分具体的な感じがしたからだ。

これは、もう一つ良くないとされている「記述的」と書いてある言葉で理解できそうだ。「東大に入る」という夢は、言葉として記述は出来るが、そういう姿を生き生きと描くことが難しい。これに対して、この夢以上に空想的な「プロ野球選手になる」という夢があるが、これは野球で活躍している自分というのを、少なくとも想像の世界では生き生きと描くことが出来る。そうすると日々の練習などでもその夢を描きながらやれば、つまらない反復練習も未来の楽しみのおかげでやる気が出てくる。

「プロ野球選手になる」という夢は、記述する前にすでに頭の中に映像が浮かんでくる。そのようなものこそが具体的で、記述的・抽象的ではない夢なのではないかと思う。このような夢があれば人間は幸せになれる。

この章で大事なものはあと三つある。一つは、「夢を否定形で考えない」というものだ。これは、否定形というものが、言葉を媒介しない限り理解できないという安冨さんの考えから来ているのではないかと感じる。否定形の夢は常に記述的なのだ。そうならないように頑張ろう、というものは自分を駆動するエネルギーにはならない、というのは共感できる指摘だ。

むしろ心理的なプレッシャーのせいだろうか、否定形の夢は、そうなりたくないのに、そうなってしまうという結果を招くという指摘もある。これは大事なことだ。練習では名プレイヤーなのに、試合ではさっぱり実力を出せないというスポーツ選手の場合は、この否定形の夢がメンタル面を支配しているように感じる。失敗したらどうしようというプレッシャーのために、試合ではスムーズな動きが出来ないのだと思う。

『車輪の下』のハンス・ギーベンラートの失敗も、試験に絶対に成功しなければならない、失敗してはならないという否定形の夢のせいのように感じる。ヘッセはそう表現していたように感じる。

二つ目の重要なポイントは、夢は達成することの意義よりも、その過程にあると言うことの意義の方が大きいというものだ。夢は自分を稼働するエネルギーだ。だから、過程にあって、夢を意識していることが大事だ。その時に最も大きなエネルギーを得る。もし達成してしまったら、次の夢を持たなければ、エネルギーはなくなってしまう。燃え尽き症候群のようなものだ。若い内に夢を達した人間が、その後の人生で不幸なのはそのせいだろう。

過程にあることが大事な夢は、板倉聖宣さんが語った究極の理想と呼べるもののように感じる。究極の理想は達成は難しい。簡単に達成できる理想は理想ではない。しかし、実現不可能な理想は、今度は理想として掲げ続けることが難しくなる。捨て去ってしまいたい妄想のように感じてしまう。ずっと持ち続け、しかもなかなか達成できない究極の理想こそ、過程にあることが尊い夢になりそうだ。

過程が大事だと言うことでは、安冨さんは次のように書いている。

「そうやって、夢を描きつつしっかり歩むならば、その夢は実現しないとしても、その過程で得られることによって、あなたは次の夢を夢見ることが出来るようになります。そのような、夢の渡り歩きこそが、あなたの「道」です。」

究極の夢の過程で、小さな夢があり、それがここで語っている「次の夢」を生んでいくような感じがする。そうすれば、夢の状況の良い展開が得られるだろう。この本の表題の「生きる技法」にふさわしい知識だ。

最後に大事な三つ目のポイントは、実は夢ではなく幸せに関するものだ。それは次の安冨さんの言葉で語られる。

「幸福というのは、感じるものです。幸福だと感じれば幸福であり、感じなければ幸福ではないのです。」

これは実に示唆に富んだ指摘だ。幸福というのを自分の環境のように考えている人もいるのではないだろうか。物質的な裕福さや、成功や賞賛という名誉に関するものが幸福なのではないかと考えていないだろうか。しかし、幸福というのは「感じ方」という自分の内面の問題なのだ。

これは僕は完全に同意するのだが、感じ方など勘違いもあるではないか、と考える人もいるだろう。だが、この感じ方は、単にそう思い込んでいるというものではなく、自分の生な感覚に素直に従って感じるということが問題にされている。文学的に表現すれば「心からそう感じている」とでも言う状態だろうか。

問題は、そのような感受性を邪魔するような要素が現代には多いと言うことだ。安冨さんの指摘では、特に子供時代の育ち方に問題があるという。しつけという名で行われる精神的な虐待が、子供の感受性を限りなく生のものから引きはがし、感じさせなくしてしまうからだ。

この生の感受性を取り戻し、この感受性に従って幸せだと感じるかどうかが、安冨さんが言う「幸福を感じる」と言うことだ。この感受性が壊れている人は、決して幸せを心から感じることが出来ず、どんなに良い状況にいると思えても常に不安に悩まされる。日本人の多くが物質的に豊かなのに幸せを感じられないのは、この生の感覚が壊れている人が圧倒的に多いからだ。

この感覚が、僕の中では壊れているのかまともなのかは分からない。それを知るには、他者を生の感覚で受け入れるという経験と訓練で学習していくしかないのではないかと思う。僕は、これから出会うすべての人に対して、その人の生に出会えるかどうかをいつも考えながら行動しようと思う。そして、他者の生を受け入れられる人間になったら、その時は自分の生を受け入れてくれる人を探し、幸せの感覚を取り戻すことが出来るのではないかと思う。これは、僕の一つの夢になるだろうか。





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最終更新日  2012.04.29 21:25:20
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