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自由というものを僕は三浦つとむさんから、「必然性の洞察」であると学んだ。これはヘーゲルの言葉らしいのだが、自由という概念の弁証法的理解が込められている。自由というのは普通は制約のない状態だと捉えられている。何ものにも縛られていないから自由なのだ。しかしこの考えを極端にまで推し進めると論理的な矛盾が生じる。
何ものにも縛られていないのを自由だとすると、その自由は現実には存在しないということになってくるからだ。つまりすべての制約から解放されている存在はないということだ。そのようなものは想像上の神にでも帰属する性質となる。現実の自由は、何かの制約があるという自由の対立物を背負っている。つまり弁証法的存在なのだ。自由はその対立物である制約との調和の元に実現する過渡的状態だと僕は三浦つとむさんから学んだ。 「必然性」という制約は逃れることの出来ない制約だ。だからこそそれを洞察することが現実の自由につながる。必然性に逆らうことが出来ないのだから、それを洞察して調和を図るところに現実の自由がある。これは論理的に正しい。問題は、この論理的に正しい方向が、実践的にはとても難しいところだ。我々はどうやって必然性を洞察すればいいのか? 必然性の洞察は科学の進歩とともにより深く広くなってきた。我々の自由度は広がったと言っていい。だがまだまだその範囲は狭い。世界には解明できていない事柄は山のようにある。そして、解明不可能ではないかという事柄さえある。ウィトゲンシュタインは、「語り得ぬことは沈黙すべき」と語ったのだが、原理的に必然性が洞察できないことは「語り得ぬこと」ではないかとも感じる。 マル激での安冨さんと宮台さんの議論の中で「宗教的なもの」が語られていたが、それはまさに必然性が洞察できないもので、運命というような解釈しかとり得ないもののように見える。大震災のような災害に遭うということや、犯罪被害者になってしまうというようなことは、なぜ自分がそのような目に遭うのかという必然性はない。強いていえば、確率的にゼロではないから、誰かがそのようになるのであって、その誰かが自分であるのは偶然だ。必然性は、誰かがそのような目に遭うということだけだ。 放射線の被曝による癌の発生についても、それは確率的な現象だから、誰かが癌になるのは必然だが、誰が癌になるかは偶然だ。このような必然性は、それを洞察したからといって果たして「自由」になるだろうか?むしろ不安が増して不自由になってしまうのではないか。「自由」を「必然性の洞察」と捉えるのは、素晴らしい弁証法的思考だと思うが、論理の明快さに比べて、実践の困難はとても大きい。 この実践の困難さに明快な解答を与えるのが、安冨さんのこの第5章だ。「必然性の洞察」を別の視点で見ると、安冨さんが語る「選択の自由」に行き着くのではないかと思う。すべての選択肢の中から最適解を選ぶというのが「必然性の洞察」をすることで可能になる。理論的にはその通りだと思う。しかし実践的には、安冨さんが語る「計算量爆発」という現象のために、その最適解を選択することが出来ない。「必然性の洞察」の困難さの理由がこれで分かった。必然性を洞察し、最適解を計算しているだけで人生の大半を使ってしまうのだ。「必然性の洞察」は、実践的には不可能なのだ。 それでは「自由」の根拠をどこにおけばいいのか。必然性の洞察でないとするといったい何が自由の根拠になるのか。これにも安冨さんは明快な解答を与えている。そして僕はそれに共感し、見事な解答だと思う。 自由の根拠になるのは、命題6-8で語られている「自分の内なる声に耳を澄まして、その声に従う」ということだ。自分の感覚を信じその通りに行為することこそが、自由に振る舞うということなのだ。これは考えてみれば当たり前だと思うのだが、それは単なる思い込みでわがままではないかという声も聞こえてきそうなので、誰もそのように考えなかったのではないだろうか。 これが単なる思い込みではなく、自由であるためには、その心の声に従うことから学習が始まらなければならない。学習せずに、自分のエゴに執着して選択しているのでは、それは全然自由ではないのだ。執着は自由ではない。何かの狂った像に縛られているだけだ。 命題7の「自由でいるためには、勇気が必要である」という指摘も共感するものだ。エゴで心の声に従うのでなければ、それは世間の常識と対立する場合がしばしばある。そんなとき、自分の感覚を否定してしまえば自由にはなれない。自由になるためには、社会を支配する空気と戦わなければならない場合が多々ある。とても勇気のいることなのだ。 この自由の概念は、安冨さんが『生きるための論語』で論じていた西欧倫理学の難問への答にも通じる。それは、どちらを選んでも倫理的な大問題が生じるような問題に対して、究極の選択をするものだ。マイケル・サンデルによって有名なった。暴走するトロッコの行き着く先にいる一人と五人の、どちらを犠牲にして救うかという選択だ。 これには必然性はない。どちらを選んでも困る。どちらも選びたくない。カント的な自由の概念では、このような状況においても、どちらを選ぶかという決定が出来ることが「意志の自由」として語られているように感じる。理論的にはそれはその通りだと思うが、実践的にはそこに自由があっても解答を出すことが出来ない。そこがこの難問の難しい点だ。 安冨さんは、この場合でも自分の内なる感覚に従って解答を出せと言う。それこそが自由な思考だという意味だろう。僕もそう思う。そして、どのような結果が出ようとも、その結果から学ぶことが出来れば、それは自由につながるのだ。本質は学習の回路が開いているかどうかということにある。それこそが自由の根拠になる。 この発想は、またしても僕の尊敬する板倉聖宣さんの考えに通じるものになる。板倉さんは、「どちらに転んでもシメタ」という格言をよく語った。これは選択が難しい問題にぶつかったときに、たとえどちらの道を選ぼうとも、その結果から学んで、「シメタ」つまり利益となる方向を必ず見出すことが出来るのだという学習の方法を語ったものだった。これは安冨さんが語る「学習」と「自由」の理論を総合したものから導かれるものになるのではないかと思う。 安冨さんの主張をすんなりと受け入れ、前からそう考えていたという親しみを感じるのは、安冨さんが普遍的な真理を語っているからではないかと思う。自分がそう思っていたことを適切に表現してくれる人に出会うと、真に幸せな気分になる。このことを多くの人に知らせたくなる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012.04.24 09:26:35
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