物乞いと人買い
大理の話はちょっと休憩。80年代の乞食は駅の待合室やバスターミナルにいたり、あるいは商店や食堂を回り歩いて物乞いをするというのが普通だった。共産国を標榜しているのに乞食か、と驚いたものだったが、彼らは少なくとも路上に座り込んではいなかった。歩き回っていた。おそらく当時は路上に座っていると公安が飛んできたのであろう。そして、物乞いの数自体それほど多数ではなかった。90年代に入ると乞食の数が多くなる。駅やバスターミナルはもちろん、外国人が出入りする高級ホテルや高級商店の近辺に乞食がよく出没した。そして、昔は多くが中高年の男だったのに、女子どもも相当参入していた。とはいえ、金よりも食べ物を要求する乞食もまだたくさんいた。北京の建国門外辺りを歩いていると、外国人はよく子どもの乞食にまとわり付かれていた(私には何故かまとわり付かなかった(笑)。そしてその子どもを遠くから横目で監視しながら、母親だか親方だか知らないが(田舎で子どもを何人も買ってきて乞食をさせる親方というのが実際今でも中国にはたくさんいる)、何人か集まってマルボロなんかをふかしつつおしゃべりに興じているのをよく見かけたものだ。また、大通りの片隅に座り込んで、「○○省の農村から仕事を探しにやってきましたが、泥棒に持ってきた金全てを盗まれて帰るに帰れません。故郷への切符代として50元が必要です。どうか助けてください。助けてくれた方へのご恩は一生忘れません」などと窮状を訴える内容の毛筆書きの紙を自分の前に広げ、じっと動かないでいる、というタイプの物乞いが増えてきたのもこの頃だったと思う。しかし、座込み派の物乞いはまだそれほど多様化していなかったように記憶している。今回、昆明では以前より更に物乞いが増え、そして多様化していた。座込み派の物乞いがかなり増え、逆に徘徊派が減っていたような気がする。「貧しい田舎から出てきて進学したものの、生活費が足りません。どうか援助してください」と書かれた紙を前にずっとうつむいている女の子。生きているのか死んでいるのか分からないほどじっと座っている老人。歩道橋の踊り場で二人並んでお喋りに夢中になっている婆さんの乞食。そして、遂に中国でもインド張りの乞食が出現していた。不具を物乞いの武器にする、というやり方である。腕がない、足がねじれて動かない、背骨がありえないほど曲がっている、象皮病で足が異常に腫れ上がっていて寝たきり状態、などいろいろな人たちがこの寒空の下、それぞれの「売り」になる部分を剥き出しにして人目にさらし、金を乞う。中国では今も先天性の障害児はしばしば病院や孤児院に捨てられる。あるいは乞食の親方が、買い取ってきた子を稼ぎが良くなるようにとわざと手や足の骨を折り、不具にするということもよくあることだ。どういう経緯で彼らが己の不自由な体をここまで運んで人目と風にさらしつつ物乞いをする羽目になったのかは分からない。歩道にうつぶせになったまま捻じ曲がった裸の上半身を見せている青年。彼は上目遣いに彼を避けながら通っていく人々を見ている。彼の目は暗いが、表情はどんな感情も浮かべてはいない。彼の顔の前におかれた缶の中には1角札、5角札、1元札。時に10元札。彼はこの金をどうするのだろう。誰と暮らしているのだろう。両親はどうしているのだろう。彼はどこから来てどこへ帰っていくのだろう。誰が彼をここに連れてくるのだろう。そういえば、在日中国人の知人が「日本にはホームレスってのがいるけどあれは乞食とどう違うんだ?」と訊いてきたことがある。「ホームレスは物乞いをしない。決まった家や仕事はないけど。」と答えた。親方に買われた乞食の子どもは、稼ぎが悪いと殴られ食わせてもらえない。下手をすれば一生治らない体の傷を追わせられる。親に捨てられ、頼るもののない乞食の子どもの闇を思う。そして、日本のホームレスがこの国で生きることのきつさを思う。どちらがどうと比較することはおそらく無意味なのだろうが、中国の乞食の子達の闇は、多分恐ろしく深い。買われて乞食をさせられていた子どもたちの救出のニュースを新聞で読んだ。彼らは同じ年代の子どもたちよりずっと小さかった。そして笑うことも恐怖以外の感情を持つことも忘れていた。想像するだけで絶望的な気分になっていく。自分の子どもがもしさらわれてこんなことになっていたら。中国では人ごみの中で絶対に子どもの手を放せなかった。子どもが勝手にどこかに行ったりしないよう、よく言い聞かせた。子どもが見えないところに行かないよう気を配った。乞食も誘拐も人身売買もまだ当たり前に存在している。救出される人身売買の被害者は多くの被害者の中のごく一部でしかない。これもまた、中国の現実。