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深夜ぶろぐ便

深夜ぶろぐ便

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僕が好きな音楽は、オフコースです、小田さんも好きですが、オフコースの演奏や
ハーモニーなどがいいんだね、稲垣潤一さんもすきです、安部恭弘さんもすきですね、同じレーベルでしたね、70年代のフォークから80年にかけての音楽がとてもすきです。谷山さんもすきですな、斉藤哲夫さんも最高。山本潤子さんもあのボーカルは日本一だとおもいます、まっさんもすきで、人間性が好きです。亡きひとでは、英五の「生きてりゃいいさ」がすきです、イルカさん、シュリークス時代からのファン、冬馬くんもすきです。ヤス、鈴木康弘さん、甘くていい声、巣晴らしギター。チューインガムもたまらなくいいんですね、海の見える放送局。
まだまだ、あります、洋楽も大好きです。千春も好きです。
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それから、超常現象にも興味ありますが、ブラジルのあのおっさんには、
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2008.02.20
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すごい人生のひと

荻野 吟子(おぎの ぎんこ(本名:荻野ぎん)、1851年4月4日(嘉永4年3月3日) - 1913年(大正2年)6月23日)は、近代日本における最初の女性の医師である。女性運動家としても知られる。

1851年(嘉永4年) - 武蔵国幡羅郡(はたらぐん)俵瀬(たわらせ)村(現在の埼玉県熊谷市俵瀬、2005年9月30日までは大里郡妻沼町大字俵瀬)に、代々苗字帯刀を許された名主の荻野綾三郎、嘉与(かよ)の五女(末娘)として生を享ける。
1867年(慶応3年) - 望まれて武蔵国北埼玉郡上川上村(現在の熊谷市上川上)の名主の長男稲村貫一郎(のちの足利銀行初代頭取)と結婚。
1870年(明治3年) - 夫からうつされた淋病がもとで離婚。上京し順天堂医院に入院し婦人科治療をうけるが、そのとき治療にあたった医師がすべて男性で、男性医師に下半身を晒して診察される屈辱的な体験から、女医となって同じ羞恥に苦しむ女性たちを救いたいという決意により、女医を志す。
1873年(明治6年) - 上京し、国学者で皇漢医の井上頼圀(よりくに)に師事。頼圀より後妻に望まれる。しかし、ならない。
1874年(明治7年) - 甲府の内藤満寿子の私塾の教師となる。
1875年(明治8年) - 東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)の一期生として入学。
1879年(明治12年) - 首席で卒業。同学校の永井久一郎教授紹介により軍医監で子爵の石黒忠悳(ただのり)に女医の必要性を解き、石黒を介して、典薬寮出身で侍医の高階経徳が経営する下谷練塀(ねりべい)町(現在の秋葉原)の私立医学校・好寿院に特別に入学を許される。男子学生に混じり様々ないじめや苦労の艱難辛苦を舐めつつ 3 年間で優秀な成績で修了する。しかし、女性であることより、東京府に医術開業試験願を提出したが却下、翌年も同様であった。つづいて埼玉県にも提出したが同じ結果だった

1884年(明治17年)9月 - 前期試験を他の女性 3 人と受験、吟子 1 人のみ合格。
1885年(明治18年)3月 - 後期試験を受験し合格。同年 5 月、湯島に診療所「産婦人科荻野医院」を開業。34歳にして、近代日本初の公許女医となる。女医を志して 15 年が経過していた。そのときすでに父はもとより、母も前月に他界していた。吟子のことは新聞や雑誌で「女医第一号」として大きく扱われる。診療所は、繁盛し場所が手狭なため、翌年下谷に移転する

1886年(明治19年) - 海老名弾正から『日本開化小史』の著書で有名な田口卯吉らとともにキリスト教の洗礼を受ける。キリスト教婦人矯風会にも参加し、その風俗部長に就任するとともに、廃娼運動にも取り組む。
1888年(明治21年) - 大日本婦人衛生会幹事。
1890年(明治23年)11月25日 - 39 歳の時 13 歳年下の同志社の学生で、新島襄から洗礼を受け敬虔なキリスト教徒だった志方之善(しかたゆきよし)と周囲の反対を押し切り再婚する。

キリスト教や理想社会を求める互いの熱意に共感し合って幸せな新婚生活であったのも束の間、夫の之善はキリスト教徒の理想郷をつくるという信念から北海道へ渡る決意を吟子に告げる。

1891年(明治24年) 5 月 - 之善は利別原野開拓のために単身で渡道する。
1892年(明治25年) - 翌年いったん戻ったが再び渡道。吟子も診療所をたたみ、数年おくれて之善のいるイマヌエル(今金町)へ渡った。北海道の密林と原野を開拓して理想郷を創造するというこの仕事は、実際には困難を極めた。さまざまな経緯はあるが、結果的には之善の試みは挫折に終る。吟子は海辺の瀬棚に移転して合津町で診療所を開業する。国縫のマンガン鉱の開発にも失敗した之善は、京都の同志社へ再入学、卒業して牧師として北海道浦河教会に赴任した。

1905年(明治38年) - 之善は無理がたたって敗残の思いの中、病死。吟子はその後も 3 年間瀬棚で過ごす。
1908年(明治41年) - 帰京、本所区小梅町に医院を開業し晩年を送る。
1913年(大正2年) - 肋膜炎にかかり、ついで脳動脈硬化により逝去した。享年62。

せたなまち

すごい人生だとぼくは、感動しました。





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最終更新日  2008.02.20 23:05:43
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