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カテゴリ:オフコース
新しいシングルの予定でオフコースに提案がだされた。
小田作品、鈴木作品、ほかの専門家作品。 この三作を検討することになった。 小田和正「キリストはこないだろう」 鈴木康博「白い帽子」 そして、松本隆作詞筒美京平作曲 「忘れ雪」 東芝EMIは、グレープの「精霊流し」の大ヒットのあとだから 強引にオフコースをねじ伏せ、録音させ、EPとして出した。 が、さっぱり人気はでなく、 オフコースは一度もステージで歌わなかった。 その頃、人気絶頂の赤い鳥が解散。ハイファイセットと紙風船に分裂。 ハイファイのほうから、オフコースと一緒にやろうと、(吸収?) 話が出たが、オフコースのほうから 「今まで二人でやってきたから、やれるところまでがんばる」 1975年10月 オフコースのセカンドコンサートを終えた後、上野博氏は 次は箱のでかい、「中野サンプラザしかない」と思った。 オフコースをなんとか不本意な仕事から解放させ日の目をあたる ところに出してあげたい、デビューからもう5年という月日がたち ライバルたちはヒットを出して、もう解散までするグループまで、 しかし、ぼくはオフコースがこの時期まで脚光をあびなかったことが、 80年の短い間のブレークを引き起こしたんだとおもう。 上野さんは、オフコースの二人にこの話を持ちかける。 「日本青年館の800人のお客さんが一人ずつ友達をつれてきて もらえば1600人にもなるんやし、どうや?やってみようや?」 しかし、オフコースの答えは NO! 「マジョのいうとおりにうまくいかないとおもうよ、 ぼくたちのライブにはそんなでかいところでお客さんがはいらないし。」 赤字を不安してか、自分たちの世間の評価が低いと思い込んでいるのか? のちに1982年6月武道館ライブで10日間満杯にさせたグループが その7年前には1000人の観客で悩んでいたのだ。 上野さんはあきらめず、説得を続けた。 オフコースの二人はわがままにも条件をつけた。 1.会場は満杯にすること。 2.バックには二枚目のLP「この道を行けば 」のメンバーを入れること。 しかし、経費はかかる、事務所は火の車、赤字続き。 上野博さんは悩む。名案を考え出す。 レコード会社に金を出させて、ライブ版を出す条件で 企画は進み、1542まいのチケットが売れ、音楽関係者の多くに 招待状がおくられた、その会場にはユーミンをはじめ、財津さんや ハイファイのメンバーなど多くが訪れた、 1974年10月26日午後4時30分 開演のブザーがなる。 ざわめきの中、コンガのリズムが聞こえ始める。 緞帳があがり、拍手がおおきくひびく。 曲は「what's Goin On」イントロがながれ、 両サイドから、小田、鈴木がハンドマイクを持ち現れる。 ショーのようなスタートだ。いつもとは違う。 「秋ゆく街で はじまりました、僕達は今日はいつになく張り切っています。 最後までどうぞ、ごゆっくりとお聞きください」 このオフコースの「秋ゆく街で」のリサイタルは毎年、それから恒例となり、 8回も重ねた、 しかし、東芝EMIに経費負担させておいて 先のシングル、「忘れ雪」を演奏しなかったので、レコード会社はかんかんになる。 悩み多きものを演奏。ここ EMIミュージック・ジャパン オフコース/秋ゆく街で オフ・コース・ライヴ・イン・コンサート(紙ジャケット仕様) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.07.06 01:43:48
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