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テーマ:海外生活(7787)
カテゴリ:ひとりごと
イタリア系アメリカ人のマリオ・カペッキ氏がノーベル医学生理学賞を受賞した。 彼はイタリア生まれだが、8歳の時に母親とアメリカ合衆国に移民している。 今日の新聞はこの話題で一杯で、第一面に彼の写真、そして二、三面にはこれに関する記事が載っていた。 私は難しい事は分からないので、彼がどんな研究をしたかという事よりも、生い立ちに関するインタビューが興味深かったので、それを下手な訳で書いてみる。 カペッキ氏の父親は戦争中にアフリカで戦死。 母親は反ファシスト活動のため、ゲシュタポにつかまり収容所に送られる。 この時彼は5歳だった。 出征する前に父の計らいで、もし両親に何かあった時は北東にあるボルツァーノの農家に引き取ってもらう事になっていた。 以下インタビュー 記者:それでは、その農家にすむ事になったのですね。 カペッキ氏:その農家には1年ほどいました。でも父の預けてくれたお金がもうなくなって しまって、もう置いておけないと言われて追い出されたんです。 記者: どこに行かれたんですか? カペッキ氏:どこにも行く所なんてありませんでした。 ボルツァーノとヴェローナの町を うろうろしていると、私と同じような孤児のグループに出会ったんです。 どうやって食べていくかを考える毎日でした。 記者: 何か子供でも出来る仕事を見つけたんですか? カペッキ: いいえ、盗んでたんですよ。 農家や町の中で食べ物を盗んで暮らしていまし た。 いつも眠る場所を変えて、南の方に向かっていました。 そのうちに病気 になってしまい、気がついたらレッジョ・エミリアの病院にいました。 1945年の事です。 記者: どなたが病院に運んでくれたのですか? カペッキ: 誰なんでしょうか? 道を通りかかった心の優しい人だと思います。 その時私はチフスに罹っていて、そこの病院の治療がなければ死んでしまう ところでした。 記者: そこの病院で母親のルチアさんに再会したのですね? カペッキ: そうです。 母は収容所から解放されていました。 そして私を探していたのです。その時私は8歳でした。 記者: そしてアメリカに移住する事に。 カペッキ: すぐにです。 難民船に乗ってニューヨークにたどり着きました。 母の兄、ヘンリーに事前に知らせて、そこでヘンリー伯父さんは迎えて くれました。 移民の島であるエリスアイランドで検査を受けて、シラミを取った後で私達は 列車に乗り、プリンストンに行きました。 私の伯父はそこで物理を教えていたのです。 記者: その時からアメリカで学校に通い始めたのですね。 カペッキ: 翌日ですよ。 エリスアイランドから出てきた翌日に小学校に通い始めました。 全く何にもわかりませんでした。 イタリア語ですら満足に読む事も出来ません でした。 お話したように、浮浪者の生活をしていたわけですから。 記者: 生計はどうやって立てていたのですか? カペッキ:最初はヘンリー伯父さんの援助がありました。 それから母がニューヨークと ニュージャージーの病院で通訳をして稼ぎました。 インタビューここまで 戦争時は誰もが飢えをしのいで、その日その日を暮らしていたと思う。 孤児になった子供達も数え切れないくらいいただろう。 そんな中で、カペッキ氏の生い立ち、そして人生は「アメリカンドリーム」だなあと シミジミ思ってしまった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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