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浦島にきーたin Italy

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ねこ級@ 2014年 あけまして おめでおとうございます かなり前にイタリアの綺麗な景色をこの ブ…
カーサン4452@ 。゚+.謹賀新年゚+.゚(○゚∀゚)(○。_。)ペコッ お元気ですか~? 今年もよろしくお願いい…
lovetoknit@ Re[1]:あわれだよ、ここまで無知だと・・・・(05/28) 逃亡者38号さん♪ おにーさま、病の床か…
逃亡者38号@ Re:あわれだよ、ここまで無知だと・・・・(05/28) 少々 情報を。 フィリピン人は その知…
lovetoknit@ Re[1]:あわれだよ、ここまで無知だと・・・・(05/28) satomama8799さん♪ おっしゃるとおりです…
satomama8799@ Re:あわれだよ、ここまで無知だと・・・・(05/28) 後進国ゆえの、無知・無教養・思想・思考…
lovetoknit@ Re[1]:あわれだよ、ここまで無知だと・・・・(05/28) カーサン4452さん♪ なんだかね、次元を超…
カーサン4452@ Re:あわれだよ、ここまで無知だと・・・・(05/28) もう、こうやって外国人をサポートしよう…
lovetoknit@ Re[1]:真夜中の嵐(05/12) satomama8799さん♪ 登山は楽しかったです…

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Oct 9, 2007
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テーマ:海外生活(7787)
カテゴリ:ひとりごと

イタリア系アメリカ人のマリオ・カペッキ氏がノーベル医学生理学賞を受賞した。
彼はイタリア生まれだが、8歳の時に母親とアメリカ合衆国に移民している。


今日の新聞はこの話題で一杯で、第一面に彼の写真、そして二、三面にはこれに関する記事が載っていた。


私は難しい事は分からないので、彼がどんな研究をしたかという事よりも、生い立ちに関するインタビューが興味深かったので、それを下手な訳で書いてみる。


カペッキ氏の父親は戦争中にアフリカで戦死。
母親は反ファシスト活動のため、ゲシュタポにつかまり収容所に送られる。
この時彼は5歳だった。


出征する前に父の計らいで、もし両親に何かあった時は北東にあるボルツァーノの農家に引き取ってもらう事になっていた。


以下インタビュー


記者:それでは、その農家にすむ事になったのですね。


カペッキ氏:その農家には1年ほどいました。でも父の預けてくれたお金がもうなくなって
      しまって、もう置いておけないと言われて追い出されたんです。 


記者: どこに行かれたんですか?


カペッキ氏:どこにも行く所なんてありませんでした。 ボルツァーノとヴェローナの町を
      うろうろしていると、私と同じような孤児のグループに出会ったんです。
      どうやって食べていくかを考える毎日でした。


記者: 何か子供でも出来る仕事を見つけたんですか?


カペッキ: いいえ、盗んでたんですよ。 農家や町の中で食べ物を盗んで暮らしていまし       た。 いつも眠る場所を変えて、南の方に向かっていました。 そのうちに病気      になってしまい、気がついたらレッジョ・エミリアの病院にいました。
      1945年の事です。


記者: どなたが病院に運んでくれたのですか?


カペッキ: 誰なんでしょうか? 道を通りかかった心の優しい人だと思います。
      その時私はチフスに罹っていて、そこの病院の治療がなければ死んでしまう
      ところでした。


記者: そこの病院で母親のルチアさんに再会したのですね?


カペッキ: そうです。 母は収容所から解放されていました。 
      そして私を探していたのです。その時私は8歳でした。


記者: そしてアメリカに移住する事に。


カペッキ: すぐにです。 難民船に乗ってニューヨークにたどり着きました。
      母の兄、ヘンリーに事前に知らせて、そこでヘンリー伯父さんは迎えて
      くれました。
      移民の島であるエリスアイランドで検査を受けて、シラミを取った後で私達は
      列車に乗り、プリンストンに行きました。
      私の伯父はそこで物理を教えていたのです。

 
記者: その時からアメリカで学校に通い始めたのですね。


カペッキ: 翌日ですよ。 エリスアイランドから出てきた翌日に小学校に通い始めました。      全く何にもわかりませんでした。 イタリア語ですら満足に読む事も出来ません      でした。 お話したように、浮浪者の生活をしていたわけですから。


記者: 生計はどうやって立てていたのですか?


カペッキ:最初はヘンリー伯父さんの援助がありました。 それから母がニューヨークと
     ニュージャージーの病院で通訳をして稼ぎました。


インタビューここまで


戦争時は誰もが飢えをしのいで、その日その日を暮らしていたと思う。
孤児になった子供達も数え切れないくらいいただろう。

そんな中で、カペッキ氏の生い立ち、そして人生は「アメリカンドリーム」だなあと
シミジミ思ってしまった。猫

 





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Last updated  Oct 10, 2007 04:30:01 AM
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