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カテゴリ:使徒行伝とパウロの活躍
(^^)【使徒行伝15章】は、ちょうど【パウロ】の【第一回宣教旅行】と【第二回宣教旅行】に挟まれた部分になり『教会の教義の問題』を【エルサレム教会】と話合う内容になっています。 【アンティオケ教会】が、 【エルサレム教会】ときちんと連絡や 会議を行いながら『教義』を決定して行った事が解ります。 細かく読んで行くと、『アンテオケ教会』が暴走して『エルサレム教会(12使徒教会)』と対立していたなどという話は、全くデタラメである事が解ります。 上の図は、当時の歴史の流れと、『初代教会』の流れをまとめたものです。 気をつけておくのは、【使徒行伝】が即時的に書かれた書ではなく、後に【使徒パウロ】から聞いて書かれたものである・・という事です。 【第1回宣教旅行】がたったの2章(^^;)で終わっているからと言って、1年でするする回って来たと考えてはいけません。 【使徒行伝】は【使徒パウロ】の人生30年分+パウロ以前の「エルサレム教会」の内容を含んでいます。 ご覧のように、【使徒行伝】の中で、【ローマ帝国皇帝】も「カリグラ」「クラウディウス」 「ネロ」と次々に交代しています。 また【イスラエル】では【ユダヤ戦争】に向かう動乱の時代で、激しい迫害、【キリスト教会の確立】、『ユダヤ人達の内乱』など、歴史の激しい動乱時代の事でした。 【イスラエル国内】であった問題 ○【民衆の収入格差の広がりと不満の鬱積】 「ローマ帝国」となって、商業が発展し、高収入を得る富裕層商売人や【上級祭司】達への貧しい民衆の不満が広がっていた。 ○【ローマ帝国】の圧政への不満が充満】 国内で「ローマ帝国」の圧政への不満が超高まり、暴動が頻繁に起きていた。 ○【上級祭司】VS【下級祭司】が激化! 高収入で富裕層の【上級祭司】と、恵まれない 【下級祭司】の対立は深まる。 ○文化の混乱! それまで築いた「ユダヤ教文化」が、【ローマ帝国】の「ヘレニズム文化」の到来で揺らぎ始める。 ○【ヘロデ王家】への不満が充満! 傀儡政権で「ローマ帝国」のいいなりの、【ヘロデ王家】への不満が充満する。 (洗礼者ヨハネの処刑など) ○【外地に住む裕福なユダヤ商人】と【国内の貧しいユダヤ人】の不満と対立が深まる。 (その典型が【使徒パウロ】で、外地に住む裕福な商人の子息だった。この事が、イスラエル国内のユダヤ人の反感を買っていたのは、確かだろう。) ○【キリスト教徒】への激しい迫害が続く。 ○【財政の悪化!】 ヘロデ王の豊満な経営で、国内経済が悪化。 ○イスラエル国内にも「ギリシャ人」が増え、「ギリシャ人とユダヤ人の対立も激化。 地中海地域では、都市で【ユダヤ人とギリシャ人の抗争】も起こり、【ユダヤ人大量殺害事件】【ギリシャ人大量殺害事件】なども頻発していた。 (^^)こうして【キリスト教会】が【エルサレム】と【ローマ帝国内】に確立されて行く中で、【イスラエル】は国の存亡の危機に直面して行くのです。 (^^;)まあ、どうも【古代イスラエル人】というのは、こと現実的な【政治】とかが苦手な様子でありますね。 「強力なリーダー」にも欠けていたので、そこで 求められていたのが【救世主メシヤ】であった訳です。(メシヤ待望論) ところが【宗教】には非常に秀でた民族であるのですが、どうも【現実面】が過去の歴史でもいまいちなのですね。 そのため、常に回りの列強に振り回され、【国】が強く確立出来ないそんな部分がある【古代ユダヤ人】・・・だから、どちらかというと 【古モンゴロイド系統】色を感じますね。 【宗教・思想】に非常に長けているのですが、元々【村社会の人々】、大きなスケールでの【国家建設】が超苦手で、いつまでも【宗教と政治が合体した遅れた形態を持つ国家】というイメージがありますね。【古代ユダヤ人】には・・ (例~アメリカインディアン) (^^)最後の方では【エルサレム教会】と【アンティオケ教会】が余り連携してない風に見えるのは、誤解で、それはこの時代の流れを見落とし、単なる物語として【使徒行伝】を読んでしまうので、そのような誤解が生じます。 途中で【使徒ペテロ】は殉教したのか?居なくなり、【エルサレム教会】のリーダーは、「イエス・キリスト」の御兄弟【ヤコブ】に変わっています。 (^^;)ここを見落とすと、突然【ペテロ】が 登場しなくなったので、【パウロ】と決別でもしたのか?などと勘繰る人さへ居るのです。 (使徒行伝15章1~4節) 『さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。 そして、パウロやバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話合うために、エルサレムに上ることになった。 彼らは教会に人々に見送られ、フェニキヤとサマリヤを通る道々で、異邦人の改宗の事を詳しく話したので、すべたの兄弟たちに大きな喜びをもたらした。 エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行われたことを、みなに報告した。』 これはつまりは 【初代教会】初の【公会議】 という事でしょう。 (後の「教会」は、「ニカイヤ公会議」「エフェソス公会議」などを開き、『教義』について決定するようになる。) (【エルサレム会議でのパウロ】) ここで話合われたのは・・ 「異邦人にも”ユダヤ教”のしきたりや律法を守らせるべきか?どうか?」という事でした。 『初代教会のリーダー』であった【使徒ペテロ】は、「ユダヤの慣習や律法を守るべき」と主張する人々に「異邦人にまで、そのような慣習を課してはならない。ただ主イエスの恵みによって救われている。」と話し さらに【エルサレム教会】でリーダーの一人であった【ヤコブ】(イエス・キリストの御兄弟)も、「彼らには、不品行や絞殺したものの血の汚れのみ避けるように言いましょう。」と決断を下します。 ここで【イエス・キリスト】の御兄弟【ヤコブ】が新たに、【エルサレム教会】のリーダーの一人となって来ています。 ここに至る経緯には、【12使徒達】の幾人かの殉教などがあったとも推測されます。 (【エルサレム教会】設立当初から、【イエス様】の御家族は特別に、教会でもリーダー的な存在となりました。) 【使徒行伝】は長い期間を書いているので、その間には【使徒達の殉教】や【リーダー交代】なども起きているのです。 【使徒ペテロ】はこの16章からは登場しなくなりますが、それは【皇帝ネロの激しい迫害】で、【ローマ】で殉教した事によるようです。 【エルサレム公会議】では・・ 『異邦人には律法や割礼などの慣習を強いて守らせなくても良い。不品行と殺された動物の汚れた血や、偶像に備えた物について避ける事を守らせる』 ・・と決定がなされました。 そして、書状を各諸教会に書き、『バルサバと呼ばれるユダ』と『シラス』の2名を派遣する事が決定しました。 (使徒行伝15章23~29節) 『彼らは、この人たちに託して、こう書き送った。 「使徒および長老たちは、アンテオケ、シリヤ、キリキヤにいる異邦人の兄弟たちにあいさつをいたします。 私たちのある者たちが、私たちからは何の指示も受けていないのに、あなたがたを同様させ心を乱したことを聞きました。 そこで私たちは人を選び、私たちの愛するバルナバおよびパウロといっしょに、あなたがたのところへ送る事を衆議一決しました。 このバルナバとパウロは、私たち主イエス・キリストの御名のために、いのちを投げ出した人たちです。 こういうわけで、私たちはユダとシラスを送りました。彼らは口頭で同じ趣旨のことを伝えるはずです。 聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかには、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないと決めました。 すなわち、偶像に備えた物と、血と、絞殺した物と、不品行を避ける事です。以上。』 (^^)『エルサレム教会』から使わされた『バルサバ』と『シラス』は、この決定を皆に知らせ、兄弟達を力ずけ、励まして帰還しました。 このところを読むと、このようにして『教会会議』が開かれ、色々な『教義』が決定されて行った事が理解できますね。 そして15章の終り・・ この事で、【パウロ】たちも、さらに他の【教会】も心配になったのか? 【第二回目の宣教旅行】 に行く相談をしています。 (バルナバ) ところが、【バルナバ】は【ヨハネ・マルコ】を連れていくと主張し、【パウロ】は「途中で帰った人は連れて行けない」と主張して、激しくぶつかり、二人はついに別ルートを取る事になりました。 (^^)このように、【使徒パウロ】が、宣教に沢山出られるようになったのは、【アンテオケヤ教会】などが確立され、留守をまかせても大丈夫な状態になったのも大きいかも知れません。 【バルナバ】は、【マルコ】を連れて【キプロス島】回りに海路で、そして【パウロ】は【シラス】を連れて、シリヤ方面から陸路で宣教に向かいました。 【使徒行伝16章】 【使徒パウロ】と【シラス】の 【第2回宣教旅行】 (^^)【使徒行伝】では16章~18章のまでが、【パウロの第2回宣教旅行】そして、 18章終盤から【第3回宣教旅行】 がさらに続きます。 【使徒パウロ】は、このように長い長い【宣教旅行】を繰り返し、【小アジヤ(現トルコ国)】そして【ギリシャ】に次々と【教会】を建ててゆきます。 この間は数十年の期間があり、合間には 【パウロ書簡】 「ローマ人への手紙」 「コリント人への手紙」 「テサロニケ人への手紙」 「エペソ人への手紙」 「ガラテヤ人への手紙」 「フィリピ人への手紙」 「テモテへの手紙」 「テトスへの手紙」他 【新約聖書】 でも中心となる、【書簡】を次々に送り、諸教会を指導していました。 【使徒パウロ】と【弟子シラス】 は【陸路】! 【パウロ】と【シラス】 ★【シラス】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%82%B9_(%E4%BA%BA%E7%89%A9) 【シラス】は【エルサレム教会】から派遣された聖霊に満ちた弟子で預言者。 【バルナバ】と【マルコ】は 「海路」!(キプロス島から) (バルナバとマルコ) 【マルコ】は【マルコ福音書】の著者で、キリスト存命中から【家】を貸すなどして熱心なエルサレム出身の弟子。(「ヨハネ・マルコ」という) (^^)では【使徒パウロ】の2回目の旅を見てみましょう。 (使徒行伝15章40~41節) 『パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みをゆだねられて出発した。 そして、シリヤおよびキリキヤを通り、諸教会を力ずけた。』 【アンテオケ(シリヤ)教会】を出発した【パウロ】らは、【キリキヤ地方】(トルコ南部」である、パウロの故郷【タルスス】により、【デルベ】に行きます。 【タルスス(Tarusus)】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%B9 【キリキヤ】の首都で、重要な通商路にあった。 【使徒パウロ】の生誕地であり、他では【クレオパトラ】と【アントニウス】が逢引きをした所で有名で、当時は大きな町であった。 (大学もあったと言われる) (トルコ【タルスス】にある【聖パウロ教会】) ★【タルススの古代の道の遺跡】google https://www.google.com/maps/place/%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B3+%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%A3%E3%83%B3+%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%B9/@36.9170554,34.8929489,3a,75y,270h,92.93t/data=!3m8!1e1!3m6!1sAF1QipMf1XGrt6iNXJl0JIlcmfMhQQyJJ96wXHgVd1pA!2e10!3e11!6shttps:%2F%2Flh5.googleusercontent.com%2Fp%2FAF1QipMf1XGrt6iNXJl0JIlcmfMhQQyJJ96wXHgVd1pA%3Dw203-h100-k-no-pi-2.9338646-ya259.5-ro-0-fo100!7i10240!8i5120!4m5!3m4!1s0x1527de5d1a44b753:0xfcba86596ef20940!8m2!3d36.9165612!4d34.8952102 そして、【デルベ】(Derbe)に向かう。 ★【デルベ】~【パウロ】が数回訪れた町。【イコニオム】(コンヤ)から100kmの所にあったようです。(第1回目宣教旅行でも訪問) 現在は【丘】が残るのみ・・ (【タルスス】から【デルベ】への道。 【トルコ】はこのような荒野が続く場所。彼らの旅路が大変な荒野の旅であった事を思い知りましょう。) 次に訪れたのは【ルステラ】 ★【ルステラ(Lystra)】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A9 【イコニオム】から40km程度にある町で、 【弟子テモテ】の出身地。 【ルステラ】では【第1回の宣教旅行】では、「足なえの男を癒した時、町の人々が彼らを神様と呼んで大騒ぎになったり、「イコニオム」から来たユダヤ人達に【パウロ】は”石打ち”に会うなど、大変な事が起きました。 (^^)これらの【キリキヤ地方】は、【パウロ】の出身地【タルスス】から近いので、恐らく何度も訪れた町でしょう。 【イコニオム】(現在の「コンヤ」)にも、数多く訪れています。 いずれも内陸の町で、かなりの距離がありますね。 (使徒行伝16章1~5節) 『それから、パウロはデルベに、ついでルステラに行った。 そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ婦人の子で、ギリシャ人を父としていたが、ルステラ、イコニオムの兄弟たちの間で評判の良い人であった。 パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシャ人である事を、みなが知っていたからである。 さて彼らは、町町を巡回して、エルサレムの使徒たちと長老たちが決めた規定を守らせようと、人々にそれを伝えた。こうして、諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った。』 ★【テモテ】 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%A2%E3%83%86 【ルステラ】出身の弟子で、【パウロ】の旅に同行し【ギリシャ地方】に宣教。 後には伝承で【パウロ】から「エフェソス教会」の宗教に選ばれるほどの、弟子であった。 【テモテ】がギリシャ人の父を持つ人であるので、【パウロ】は”ユダヤ教”のしきたりに沿って、割礼を受けさせている。 矛盾するようだが、恐らく「拘りの強いユダヤ人達」に反感を持たれないように考えたのだろう。 【聖霊】によって【アジヤ】で御言葉を語る事を禁じられ、彼らは【フルギヤ・ガラテヤ方面】(内陸地方)に向かう。 【フルギヤ地方】 この地域には【ピシディアのアンティオケ教会】 がある。 (余談だが【カバドキヤ地方】などもある場所。この【カバドキヤ地方】には「初期の修道院」が沢山残されている。『カイマクル地下都市』など、激しい迫害を逃れたキリスト教徒が沢山、地下生活をした場所もあります。) 彼らは内陸を通り、【ムシヤ】に来た。 ★【ムシヤ】というのは【ティアティラ教会】のある地域を指す。 (「ティアテイラ教会」は黙示録にある七つの教会のひとつで、エーゲ海側である。) ここから【ビテニヤ】方面に向かおうとしたが、【イエスの御霊】がそれを赦さなかった。 ★【ビテニヤ】は以下の場所で、解りにくいですが、黒海に面する地域です。 (^^)何故、それを【聖霊様】が赦さなかったか?と言えば、次に【ギリシャ方面】へ行くのが、神様の御計画だったからでしょう。 【ムシヤ】(「トルコ 黒海沿岸」)を通り、 【トロアス】に到着 【トロアス】は、【ルカ福音書】&【使徒行伝】の著者【ルカ】(医師)の故郷であると言われています。(^^)な~んと! 【ルカ】は学問の高い人でしたが、大きな都市の出身だったんですね。 (「トロアス」の遺跡」 ここに【パウロ】は滞在し、「マケドニヤ」 (ギリシャ)へ行く幻を示されます。) この【エーゲ海沿岸】の風光明媚な地域は、古代から通商で栄え、多くの都市がありました。 【トロアス】と名前が似てますが・・ そのひとつが有名な【トロイ】です。 紀元前から数世紀に渡り都が栄えました。 (トロイ遺跡の木馬) (使徒行伝16章8~10節) 『ある夜、パウロは幻を見た。 ひとりのマケドニヤ人が、彼の前に立って、 「マケドニヤの渡ってきて、私たちを助けて下さい。」と懇願するのであった。 パウロがこの幻を見た時、私たちは、ただちにマケドニヤに出かける事にした。 神が、私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるためだと、確信したからである。 そこで、私たちは【トロアス】から船に乗り、サモトラケに直行し、翌日ネアポリスに着いた。』 【使徒パウロ】は【トロアス】で、【幻】を見て、【マケドニヤ人(ギリシャ人)】が、渡って来て助けて下さいと懇願するのを見ました。 彼らはそれを【神様の啓示】と確信して、するぐに【トロアス】から出帆し【サモトラケ島】へ渡り、続けて『ネアポリス』から『ピリピ』に到着しました。 (借りてます) 上の地図のように、【エーゲ海】を渡り、【サモトラケ島】へ。 【サモトラケ島】は、有名な【ルーブル美術館】の【サモトラケのニケ】が発見された島です。 (^^)【使徒パウロ】の足跡とたどるなら、ここの【ギリシャ】もかなり大切な場所ですね。 (^^;)そのうち行けるといいなあ(笑) 【ギリシャ】の大都市【ピリピ】【テサロニケ】そして【アテネ】で、【使徒パウロ】と【シラス】【テモテ】は熱心に宣教します。 ○「ネアポリス」~【大都市ピリピ】の港として栄えた町。 ○【ピリピ】 【ピリッポイ】と呼ばれた大都市で経済の中心だった。【パウロ】が最初に宣教したぎりしゃの街。 後に【ピリピ人への手紙】が書かれる。 ○「ピリッポイ」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%9D%E3%82%A4 (巨大な「ピリピ」の遺跡) (【パウロ】の宣教しただろう、巨大な劇場跡) 【ピリピ】での出来事 ○パウロとシラスは熱心に宣教する。 ○【ルデヤ】という女性の改心 (テアテラ市の紫布の証人) ○占いの霊につかれた女性の迷惑行為。 ○「教えで訴えられ、二人は鞭打ちの刑になり、牢に入れられるが、不思議な大地震で牢が壊れ、二人は助けられる。」 ○牢の看守の改心 (使徒行伝16章20~27節) 「そして、ふたりを長官たちの前にひきだして、こう言った。 この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの街をかき乱し、ローマ人である私たちが採用も実行もしてはならない教えを宣伝しています。」 群衆も二人に反対して立ったので、長官たちは二人の着物をはいで、鞭で打つように命じ、何度も鞭で打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足かせを掛けた。 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部空いて、みなの鎖がとけてしまった。』 長官は、【パウロ】は【ローマ市民】だったのに、理由も聞かずに「鞭打ち・投獄」した事をわびて、二人を行かせました。 【使徒行伝17章】 (使徒行伝17章1~2節) 『彼らはアムピポリスとアポロニヤを通って、テサロニケへ行った。そこには、ユダヤ人の会堂あった。 パウロはいつもしているように、会堂に入って行って、三つの安息日に渡り、聖書にもとずいて彼らと論じた。』 ○「アムピポリス」「アポロニヤ」 ギリシャのエーゲ海沿いの町。 ○【テサロニケ】 (^^)現代でも『アテネ』に次ぐ、第二の都市である【テサロニケ】 (観光旅行で訪れる事も可能です。) 聖書時代の推定人口は10万人 (^^)ちなみに【アンテオケ(シリヤ)】が33万人、エフェソス20万人、ローマは100万人でした。 と言う事で、実は当時では現在【トルコ】の方が、人口が多い大都市が集中していました。 「スミルナ」「ペルガマ」なども軒並み14万、12万人の都市です。 「ダマスコ」も30万人を誇ってました。 ★(資料 古代都市の推定人口)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E4%B8%8A%E3%81%AE%E6%8E%A8%E5%AE%9A%E9%83%BD%E5%B8%82%E4%BA%BA%E5%8F%A3#紀元100年_-_紀元1000年 ★【テサロニケ】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%AD ★【テサロニケ】GOOGLE https://www.google.com/maps/place/%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A3+%E3%83%86%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%AD/@40.6407547,22.9597359,3a,75y,90h,90t/data=!3m8!1e1!3m6!1sAF1QipNrc8WjMNmcwdvqJk6YokpbdxSsKXg-x8C9P1f4!2e10!3e11!6shttps:%2F%2Flh5.googleusercontent.com%2Fp%2FAF1QipNrc8WjMNmcwdvqJk6YokpbdxSsKXg-x8C9P1f4%3Dw211-h120-k-no-pi-11.609375-ya276.4427-ro0-fo100!7i10240!8i5120!4m5!3m4!1s0x14a838f41428e0ed:0x9bae715b8d574a9!8m2!3d40.6400629!4d22.9444191?hl=ja-JP 【ローマ時代】も【自由都市】として栄え、盛んな交易で潤う大都市で、【キリスト教】の宣教でも重要な拠点でありました。 (^^)”ギリシャ”の美しい大きな街で、観光地としても有名ですね。 (^^)ここでも、多くのギリシャ人達が、【パウロ】の教えに従って信仰に入ったが、敵対する『ユダヤ人達』が暴動をおこし、彼らを追いかけました。 (使徒行伝17章10節) 『兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスをベレヤに送り出した。ふたりはそこに着くと、ユダヤ人の会堂に入った。』 ★『ベレヤ』~”テサロニケ”の近くにあった町。 (使徒行伝17章11節) 「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてその通りかどうか毎日聖書を調べた。そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入った。その中にはギリシャの貴婦人も少なくはなかった。』 【ベレヤ】で多くの信徒を獲得するも、ユダヤ人達が追ってきて、攻撃してくるため、兄弟たちは、【パウロ】を【アテネ】に連れて行く。 しかし【シラス】と【テモテ】は留まって、宣教しました。 【アテネ】 (^^)ついに、【使徒パウロ】は【ギリシャ】の首都【アテネ】にやって来ました。 【アテネ】は「ギリシャ神話の神々の偶像」が溢れていて、【使徒パウロ】は心に憤りを感じます。 (^^;)というか【エフェソス遺跡】でも、当時に【ギリシャの都市】は【ギリシャ神話の神々の像】が大量に飾られていました。 (使徒行伝17章16~31節) 『さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。 そこで、パウロは会堂でユダヤ人や神を敬う人と論じ、広場では毎日そこに居合わせた人と論じました。 エピクロス派とストア派の哲学者達も幾人かいて、パウロと論じ合ったが、その中のある者たちは「このおしゃべりは、何をするつもりなのか。」と言い。他の者たちは「彼は外国の神々を伝えているらしい。」と言った。 パウロがイエスと復活を宣べつたえたからである。そこで彼らは、パウロをアレオパゴスに連れて行って、こう言った。 「あなたの語っているその新しい教えがどんなものであるか、知らせていただけませんか。私たちにとっては珍しいことを聞かせてくださるので、それがいったいどんなものか、知りたいのです。」 アテネ人も、そこの住む外国人も、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。 そこでパウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。 「アテネの人たち。 あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心に熱い方々だと見ております。 私が道を通りながら、あなたがたの拝むものを良く見ていると『知られない神に。』と刻まれた、祭壇があるのを見つけました。 そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにお住みになりません。 また、何か不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。 神は、すべての人に、命と息と万物をお与えになった方です。 神は、ひとりの人からすべての国々を作り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界をお定めになりました。 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見出すこともあるのです。 確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまた、その子孫である。』と言った通りです。 そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金銀や石の像と同じと考えてはいけません。・・』 【使徒パウロ】はこのように、さらに大胆に語りました。 (ギリシャのアレオパゴス) 【アレオパゴス】というのは、【ギリシャのアクロポリス】と対する【小高い丘】で、そこで【会議】が行われる場所でした。 (^^)【ギリシャ人達】は、日々広場で”哲学”など形而上学的な論議をするのが好きな人々だったようですね。 【ギリシャ人】は”哲学”好きです。 幸運な事に【パウロ】の話も、彼らにとっては、とても興味深い知識と映ったようで、しきりに【パウロ】の話に興味を持つ人も多かったようです。 彼らは、以外に【キリスト教】にとても興味を持ってくれた様子も伺えますね。 (広場で、”哲学”や”数学”の論議をする【ギリシャ人達】) ★【ギリシャの有名な哲学者】 【プラトン】 【ソクラテス】 (「プラトン」と「ソクラテス」) ★「プラトン」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3 ★【ソクラテス】 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9 【使徒行伝18章】 (使徒行伝18章1章) 『その後パウロはアテネを去って、コリントへ行った。』 (^^)【ギリシャ】でも、勢力的な宣教を続ける【使徒パウロ】は、次なる都市【コリント】へ向かいます。 このようにして、彼らは信徒を増やし【教会】を【ギリシャ各都市】に次々と立てていくのです。 ★【コリント】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%B9 (「コリント遺跡」) 当時は【アテネ】【スパルタ】と並ぶ繁栄した 【都市国家】でした。 (^^)素晴らしい遺跡ですね。 ここに【使徒パウロ】が滞在して、福音を宣教したかと思うと・・ ここでは【パウロ】はしばらく滞在しました。 同業者テント職人の【アクラと妻プリスキラ】と一緒に仕事をします。 (使徒行伝18章2~4節) 「ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人、およびその妻プリスキラに出会った。クラオデ帝がすべてのユダヤ人をローマから退去させるように命じたため、近頃イタリヤから来ていたのである。パウロは二人のところへ行き、自分も同業者であったので、その家に住んで、いっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。 パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシャ人たちを承服させようとした。 そして、シラスとテモテがマケドニヤから下ってくると、パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した。』 (^^)【使徒パウロ】は、教会から献金を頂いて生活も出来たのですが、皆に責められないように、このように仕事もしながら滞在費を稼ぎ、【宣教】をしていたようです。 立派な心がけですね・・! また【クラオディオ帝】の時代となり、【ユダヤ人迫害】にも拍車がかかり、多くのユダヤ人が、ローマからも追放されています。 (年代紀元40~50年頃) 次は【ネロ皇帝】となりますぅ。 (^^)年代からも、色々な事が推測されます。 【ユダヤ人】や【キリスト教徒】への迫害も強まってきている様子が解るし、そろそろ【12使徒達】も高齢になってきたり、殉教して亡くなる人も多くなった事でしょう。 あるユダヤ人は反抗的で暴言を吐いたりしたが、ここでも多くの信者を得ていて、パウロは神様のさらなる幻で啓示を受け、1年半分とどまって、しっかり宣教をしています。 (使徒行伝18章8~11節) 『会堂管理者クリスポは、一家をあげて主を信じた。また、多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けた。 ある夜、主は幻によってパウロに「恐れないで語り続けなさい。黙っていてはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害をくわえる者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。 そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。』 ユダヤ人の反抗なども時にはありましたが、さらに【パウロ】はここに長く滞在して、み言葉をしっかりと語り続けました。 そして【コリント】を去る時、 【プリスキラ】と【アクラ】が同行しました。 この時に実は 【パウロ】は”髪を剃って”たんです。 (で、最後はこのような姿になりました) (^^;)まことにすみません、【パウロ】はやはり”禿げ頭”になった時期があるんですね。 ごめんなさい。間違ってました~。 しかし、ずっと”禿げ頭”ではなく、【コリント】で頭を”剃りました”! 【パウロ】一向は船出して【エフェソス】に到着し、そこで会堂で教え、【カイザリヤ】(イスラエルの港町)から【エルサレム教会】 に戻ります。 (^^)このように【宣教旅行】の後には、きちんと【エルサレム教会】に顔を出して報告、挨拶をしているのです。 (ここでも、あくまで本部は【エルサレム教会】として心得る【使徒パウロ】の姿が描かれています。 『エルサレム』と『アンテオケ』・・ どれほど遠いでしょうか? (鹿児島~札幌??)とにかくめちゃめちゃ離れた距離であるのに、【パウロ】はきちんと毎回挨拶に出向いています。 「手紙」もなかなか届かない、現代のような「ネット」も無い時代、人々はどれほの距離を歩いて伝えていたのか気が遠くなりますね。) 【使徒パウロ】が『宣教旅行』に何度も出かけてのも、一つは出来上がった【教会】も巡回指導してた訳です。 あの日本の2倍も面積がある【トルコ】を横断してますが、(^^;)バスでも”二度と行きたくない”異常なほどに長い距離です。 この距離を大した交通手段も無い時代、移動するのは大変な事でした。 徒歩やせいぜい、馬、ラクダくらいでしょう。 さらに、治安が良い筈もなく、「盗賊」や「追いはぎ」「盗人」なども沢山居て、危険な旅であった事でしょう。 【迫害者】にもいつも攻撃され、危険と隣合わせの旅でした。 【使徒パウロ】の”宣教への情熱”に全く、頭が下がりますね(^^) 【キリスト教】が現代のように【世界第一の宗教】となったのは 【使徒パウロの命がけの宣教】に負うところが多く、私達が”キリストの救い”を聞く事が出来たのも【パウロ】のおかげである。 【使徒パウロ】の”宣教への情熱”に感謝すると共に、彼の情熱を見習う者とされましょう。 もちろん【パウロ】の自力ではなく、【聖霊様】が豊かにダイナミックに働かれた結果です。 そして、さらなる【第三回宣教旅行】に出発します。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
March 9, 2019 02:30:29 AM
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