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Manachan's World-東京下町日記

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2005年10月09日
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カテゴリ:出産・育児@大連
生後1ヶ月になったばかりの私の娘を見ていると、やっぱり中国の子だなあ(※「中国で生まれた子」の意味)と思います。一旦寝付いたら、たとえ外で爆竹の爆音が鳴っていても、絶対に起きない。そういえば、この子が生まれた婦産病院も相当うるさかったけど、それが全然苦にならないらしい。騒がしい環境の中でもぐっすり寝られる、これは中国で生きていく上での必須スキルの一つでしょう♪

ところで、父親が日本人、母親が中国人(華僑)、そしておそらくオーストラリアで育つであろうこの子は、いったい、「何国人」になるんでしょう?「国籍」という意味でいえば、「日本人かつオーストラリア人」になるんでしょうし(※中国国籍はない!)、また文化・民族的な意味でいえば、「日本人かつ中国人(漢民族)」になるんでしょうし、またナショナル・アイデンティティの観点でいえば、たとえばオーストラリアで育てば、自然に「自分はオーストラリア人だ」と思うようになるんでしょうし・・・。

何国人であってもいい。ただ父親としての希望をいえば、この子は、「日本人であり、かつ中国人であること」を、後生大事にしつつ生きてもらいたいなあ、と思っています。言い換えれば、悠久の歴史を持つ「中国」および「日本」の文化や伝統を背負って生まれてきたことを、心から誇りつつ、長い人生を楽しく歩んでいって欲しい、と思います。

この、「日本人であり、かつ中国人でもある」というアイデンティティは、しかしながら、昨今の社会情勢のなかでは、多少の危うさを含んでいるようにも思います。人口の大多数が白人で占められるオーストラリアのような社会であれば、別に中国人だろうと日本人だろうと、一緒くたに「アジア人」という枠組みで括られるからラクなのですが、中国や日本では、まだまだそうはいきません。

私は、娘の日本語名に「亜州香」(※「亜州=アジア」)と名づけた通り、将来、中国人や日本人といった個別の国民概念を超えた、「アジア人」という新たなカテゴリーが生まれ、その考えがアジア各国で広く受け入れられるようになることを心から望んでいるわけですが、でも、それはおそらく、私の生きている間には実現しないでしょう。場合によっては、「お前は中国人?日本人?一体どっちなの?」みたいな、「二者択一」を迫られることもあるでしょう。

ですので私は、そういう偏狭きわまりない「二者択一思想」とは断固として戦います。立場上、「中国も、日本も、どっちも私の祖国」、「二つの祖国を持ってどこが悪い?」と言わざるを得ない娘のために、精一杯、生存空間を確保してやろうと思います。

ですがそれ以上に、二つの祖国を持つ娘の前途には、明るい未来が広がっているような気もします。「日中ハーフ」として育つ私の娘は、あるいは将来、中国と日本との関係に、アジアの平和と繁栄に、大きな貢献ができるような人物になるのかもしれません。

ギクシャクする昨今の中日関係。その根底には、靖国参拝や歴史教科書に象徴される、日中戦争をめぐる歴史認識の問題があります。私は中国に来て以来、このテーマに関する中国有識者の著作を、いくつか読んできました。それらを読んだあと、日本人の著作を読むと、良い悪いは別として、日中両国民のあいだに非常に深い溝があることを、いやでも認識させられます。この問題は、実に根深い。戦犯の扱い方、戦死者の弔い方、被害と加害に関する考え方、歴史に対する態度の違いなど、文化の深層にも根ざすことなので、決して、一朝一夕には解決しないでしょう。

先日、余傑という新進気鋭の若手ライターが書いた、曖昧的隣居(敢えて邦訳すれば、「日本-この曖昧な隣人」)という中国語の本を読みました。作者は四川省出身で、1973年生まれ(俺より若いじゃん!)。若くみずみずしい感受性と、あふれるパワーで、日本各地を精力的に取材した上で、中国と日本との間に、なぜ歴史認識のズレが生じたのか、彼なりに真摯に考えています。間違いなく良著です。

ですが、これを読み終わったあと、私は、「彼は、思考の上で、中国人という枠組から一歩も出られなかった」と感じました。「中国(人)的思考というフィルターを通して日本を語る」ことには成功しても、日本(人)的な思考を血肉化して、自分の言葉で語ることはできませんでした(今後に期待しますけれども・・・)。このことはおそらく、日本人の「中国専門家」の多くにも当てはまるかもしれません。

この意識のギャップを埋めるためにも、私の娘のように、中国と日本との、二つの祖国を持つ人間の存在が、今後は貴重になってくると思います。もし彼女が、日中、いずれの国にも生活経験を有し、いずれの言葉も自由に操り、中国人的な思考と日本人的な思考を、自然にできるようになり、その違いも、似ている点も、「皮膚感覚」として分かるようになれば、これまでとは違った視点から、この問題にスポットライトを当てることができるかもしれません。もしかしたら、13億余りの中国人と、1億余りの日本人とが、「ああ、結局はこういうことだったのか!」と納得するような、「目からウロコ」の考え方を生み出せるかもしれません。

今や、国籍やナショナルアイデンティティを一つに限る時代ではありません。また、「日本(中国)人なんだから日本(中国)に住む」時代でもありません。むかし、大地の子というNHK大河ドラマがありましたが、その主人公で、中国に取り残された日本人孤児の「陸一心」が、「(自分は日本人でも中国人でもない)私は大地の子です!」という悲痛な叫びをあげたような時代は、もう終わりました。これからは、「私は日本人であり、かつ中国人です」と、胸を張って言う時代です。

私の娘の前途に、幸多からんことを。





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最終更新日  2005年10月09日 19時03分52秒
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