テーマ:マンドリン(261)
カテゴリ:編曲論
前回、管楽器とマンドリンの音色は本来合わない、とかなり強いトーンで述べた。
今回は、別の角度から少し話をしてみたい。 幻の国「邪馬台」や「失われた都」で知られる作曲家「鈴木静一」氏といえば、管楽器や打楽器を従えたマンドリンの大合奏の醍醐味を世間に伝えた斯界の権威である。このことについては誰にも疑いのないところであろう。 彼が数々の作品を発表するまでは、マンドリン合奏曲は武井守成氏等の楽曲群に見られるように、いわゆる「小品」の域を超えていなかった。 鈴木氏の作品は、マンドリン合奏でもここまでできるんだ、という強いアピール性があり、彼の気概と意気込みは熊谷賢一氏や藤掛廣幸氏の作品、そして現在の数々の邦人オリジナル曲に脈々と引きつがれていると言っても過言ではない。 さて、鈴木氏のほとんどの作品は、フルート・クラリネットを標準的に使用しており、曲によってはホルンやファゴットなども使われている。 僕が学生の時、鈴木氏の作品を取り上げるにはそれなりの勇気が必要であった。 それは技巧的に云々と言うよりも、管楽器パートをどう確保するかというところに起因する。 通常はオケ部に賛助出演を依頼する。しかし彼らは、そもそも本来の演奏会の準備に忙しい。 それでも何とか頼み込んで、本番直前に来てもらうのだが、突然、異質な音色で音の大きいパートがやってくるわけで、それまで半年間、地道に練習してきたマンドリンクラブのプロパー団員は、曲のあまりの変わりように戸惑うのである。よい方に変わるのならよいが、必ずしもそうとは限らない。 例えば、ある曲の一部において、特徴的な16分音符の分散和音をドラパートが受け持っているとする。 一筋縄ではいかないので、彼らは半年間、一所懸命練習するであろう。 その結果、本番直前にはそれなりのできばえになっていて、その場所がきたら他のパート員から拍手喝采を浴びたり、自分たちも意気に感じていたりする。 ところが、全く同じフレーズがふられているクラリネットが突然やってきたら、ドラは音量的に負けてしまい、合奏の中で何をやっているかよくわからないという状況になるのである。努力が報われない、とはまさにこのことである。 鈴木氏の作品に限らず、オケ曲も含めてそれに似たシーンを僕は何度も見てきた。 それでも、本番で曲としてうまくいけばよいのだが、にわか練習なのは否めず、殆どの場合、音がずれたりかすれたり等、満足できるできばえではなかったりする。 ここで僕の言いたいことは次の3点である。 1つ目は、マンドリン合奏には管パートは標準装備されていないのが当たり前なのだ、ということ。 イタリアで発祥したマンドリンという楽器は、中音域を持つマンドラ、低音域を持つマンドセロ、さらには特殊ではあるが、マンドローネ、カルティーノなどの楽器群を生み出して、ギター・コントラバスを加えたマンドリン合奏が形作られた。楽器編成上、ここで完結していると言える。イタリアのオリジナルでは、管楽器が組み込まれた楽曲は非常に数少ないことからもわかる。 2つ目は、マンドリン音楽を引き立たせる目的で管楽器を効果的に使用する、という意図が作曲者(編曲者)にあるかどうか、ということ。 鈴木氏は、管楽器とマンドリンの旋律を対比させることで、マンドリンの持つ個性を強調しようと考えたと思われる箇所が随所にある。 しかし、悲しいかな、そういうことばかりも言ってられず、ついユニゾンで処理してしまったところが少なくなく、そういう箇所ではマンドリン族のプレーヤーは人知れず涙を飲んだことであろう。 3つ目は、そういうリスクを背負ってまで管楽器を使用することは、果たして現実的な選択なのかどうか、ということである。 マンドリン合奏が、管弦楽に対抗して背伸びしたって仕方ない。僕たちは僕たちの楽器の「個性」「持ち味」を十分生かしていくことを考えていけばよいのではないだろうか。 このように考えると、管楽器付きの鈴木氏の作品を取り上げる場合は、曲全体の雰囲気・曲想で勝負するとともに、やや矛盾するが、大胆に濃淡をつけて(演奏的にがんばる所、「あきらめる」所を明確に見極める)ポイントを絞った観客へのアピールが必要であると考える。 また、これから作曲をされる方々には、できるだけ管楽器を使ってほしくないな、と思うのである。 そして、オーケストラ曲を演奏する場合は、単純にそのまま管楽器を使用したり、管楽器のフレーズを同一楽器にディビジョンで割り振ったり、といった安易な編曲をするのではなく、マンドリン合奏のアピールポイント(特性・音色)を念頭に置いた編曲を行う必要があることは言うまでもない。 【この文章は、今後、読み返すたびに手を少しづつ加える可能性があります】 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.02.23 14:09:15
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