【粗筋】
江戸中橋の名医尾台良玄、弟子の銀南を蔵前の大店伊勢屋に代脈に行かせるに当たって、
「お嬢様の下腹のしこりを押すと放屁なされた。そばの母親に『年のせいか耳が遠くなった』と言って娘さんを安心させた。くれぐれも下腹などさわるな」
と注意したが、銀南は試しにとお嬢様の下腹を力一杯押してしまう。音高く放屁をすると、銀南は師の真似をして、
「年のせいで耳が遠くなったので、大きな声で話しかけて下さい」
「おや、大先生も耳が遠くなったとおっしゃってましたが、若先生も」
「ええ、今のおならだってきこえなかった」
【成立】
1773(安永2)年『聞上手』二篇の「代脈」は、代理で弟子が行き、向こうの門口で駕籠屋が「お頼み申します」と声を掛けると、駕籠の中から「どうれ」と返事をする噺。これはくすぐりに用いられている。全体の落ちは、天保年間(1830~44)の『如是我聞』の「月事(つきやく」」がよく似ている。
【一言】
名人と評判の老生成で病人も多い尾台良玄。ただしこの落語ではこの先生より、お弟子の銀南クンの方が中心となっての大活躍、これは大変な与太郎なのだが、風采はどうやらノッペリして立派らしい。そこで先生が大して心配のない病人へは「代脈」としてこの銀南を差し向ける。滑稽な失敗を繰り返し、お嬢さんのお腹を押して、怪音を発しさせたりする。そんな剽軽者に来られては、病人も笑わずにはおられない。笑えば胸郭が開き、薬も効き、病も癒る寸法、まことに尾台良玄は苦労人の名医といえよう。(野村無名庵)
● ある晩、両国の立花亭という寄席で、私が『代脈』をやって下りて来ると、きいていた三遊亭圓馬(3)のむらく師匠が、「おい、あしたっからもう稽古をしないよ」と、こういわれた。そこであくる日、大きな鯛を一尾、それに蛤をたくさんそえて、詫びにいってもらいました。むらく師は、「おい『代脈』のなかで銭の高をこれこれしかじかといったな。江戸の昔にあんな高えてのがあるかえ」つまり銭の高をまちがえたので、それで私はしくじったんです。(桂文楽)
● 馬風の『志那の台脈』というのがあって、お嬢さんの布団の中に手を入れ、手に触れり、「お嬢さん毛深いですネ」「先生、それは猫の手です」に、「先生、ゴジョウダンバカリ。それ座敷豚」これには受けた。志那だから座敷で豚ァ飼っている、ということだ。流石「鬼」と仇名された先代鈴々舎馬風ではある。(立川談志(5))
【蘊蓄】
後に埋め立てられたが、江戸城の外堀と八丁堀に近い紅葉川を結んだ堀割に掛かっていた橋が、ちょうど日本橋と京橋の中間に当たるので中橋と呼ばれた。
師匠に代わって見習いが診察をすることを代脈という。
「医者様の方じゃあ、代脈でも承知だろうが、素人の目からは安堵しねえものよ」(『浮世風呂』)
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