年末帰省(最終話)
長い冬といっても、南北に長いニッポン列島。西国と北国(ほっこく)では様相が違う。そして迎え来る成人式。再び雪の世界へ戻らねば。だが、あえて私は西へ向かったのである。★1月10日(土)早朝6時、松山駅。6時5分発、宇和島行きの予讃線下り出発まであと5分。(・。・)青春18きっぷで改札内へ。列車は静かに南へ向かった。伊予上灘で夜が明けた。だが、海は大荒れ。天気は暴風雨。珍しく瀬戸内が荒れている。乗車すること2時間半。南予地方の良港、八幡浜(やわたはま)に到着した。しかし、天気悪すぎ。あられまで降ってきて泣きなくなるような寒さの中をほとほと港へ。歩くこと30分、八幡浜港へ着いた。乗務員が急かす。急いで乗船手続きをする我。船は大シケの中静かに出航した。さらば四国!!↑八幡浜港を出航船は土曜日ということもあってけっこう人が乗っている。ハーゲンダッツの自販機でハーゲンダッツを買う。船内はあんますることないし、暇すぎる。ま、なんだかんだいいながらも船は大分県臼杵港に上陸した。(゜o゜)↑臼杵城跡(大分県臼杵市)とりあえず、近くに臼杵城があったので登ってみた。『臼杵(うすき)』戦国時代、キリシタン大名の大友宗麟は府内(大分県大分市)から南方の臼杵丹生島に城を築き拠点をここに移した。港にはイスパニアやポルトガルの船が来航し異色の国際都市として栄えたと伝えられる。↑臼杵を発展させた大友宗麟のレリーフ(彫刻家、日名子実三の作品)↑大砲、国崩(臼杵城内)当時、九州は豊後の大友、薩摩の島津、肥前の竜造寺の三者が三つ巴となって争っていた。だが、竜造寺が耳川合戦で島津氏に破れ、島津氏は北九州へ勢力を拡大。豊後の宗麟は次第に勢力を失っていった。そんな中、国府であった豊後府内が島津家久によって陥落。宗麟は四方を海に囲まれた臼杵に籠って篭城を決意。そして臼杵城に装備した大砲、国崩(くにくずし)が島津軍に火を吹いた。島津勢はたじろいだ、宗麟が時間を稼いでる間に豊臣秀吉の九州征伐が開始され、島津義久は九州統一あと一歩のところで退かざるを得なかった。この戦が日本における最初の大砲戦であると言われている。キリスト教を受け入れ、自らも洗礼を受けた大友宗麟は西洋の豊かな物資を多量に得ることができた。国崩も宗麟がポルトガルから買ったものである。↑宗麟が城内の鬼門の方角に祀った卯寅稲荷神社(臼杵城内)↑昔の面影はない・・・・そして臼杵駅へ歩くこと数分。ここで実家までの切符を買った。↑南国チックな臼杵駅(大分県臼杵市)さて、青春18きっぷを使って、杵築行きの列車に乗る。そして大分駅で降りた。東九州、大分。大分市は人口にして46万人。けっこう大きな町である。ここはかつては府内と呼ばれ豊後国の国府がおかれたとこである。↑府内城跡(大分県大分市)そういえば朝から何も食べていない。ま、腹が減っては戦ができぬということで・・・・↑大分名物とり天食べてみちくれば、とり天っち思うけー。うーん、勢いあまって焼酎まで頼んでしもうた。なでしこ麹を使った「杜谷」という焼酎。うまかってん。だが、どうにも具合が悪い。昼から酒を煽ったせいじゃろか??っちいうわけで、大分駅前のふくやっていうとんこつラーメン屋さんにも行ってしもうた。↑ふくやのとんこつラーメンうーん。うまい・・・・やっぱ九州に来たらとんこつやねー。550円でこんなにウマいラーメンが食べれるとは。(・。・)だが、胃の中はとんこつとアルコールでぐーるぐーる。ww大分駅に千鳥足で帰還。気持ち悪くて死にそう・・・・そして運命のときがやってきた。小倉方面に向かう特急列車が過ぎ去った夕方4時半。↑今日のお宿、寝台特急富士(大分駅にて)死ぬほど具合悪かったけど写真は撮ったよ。。。もうこれがお別れだもんな・・・・2009年3月14日をもって九州行きの夜行列車は全廃される。『富士』という列車の愛称は『桜』と並んで日本における最初の鉄道愛称。そして富士は寝台特急として長い歴史を持ってきた優等列車である。東京から西鹿児島間を日豊本線経由で結んだ日本最長の列車であった。そう車や飛行機の社会ができる以前、まだ鉄道が唯一の足であった頃。日本の近代は鉄道が支えた。そして戦争に負けた日本を復興したのも鉄道であった。新幹線などない時代、日本中を移動するには夜行列車しかない。そして夜行列車が張り巡らしていた。長い旅。夢を求め大都会東京へ向かう人。失意のうちにふるさとに戻る人。数多くのドラマを背負ってきたと思われる・・・・・・富士の旅も終わりに近い。言いたいことがまとまらない。とにかく、私はこの列車に乗りたかった。大分を16時40分に出て東京に着くのは10時頃。実に移動時間にして17時間。↑富士号ヘッドマーク↑いよいよ旅立ちのときだ・・・・だが、具合が悪い。ほんとに悪い。とりあえず、気持ち悪かったので、寝台に横になった。気がついたら、門司であった。門司で駅弁を買おうと思ったのだが、もはや出発2分前。あーやらかした。明日の朝まで飯抜きだね。これは。向かえの寝台にはお孫さんを連れたおじさんが乗っていた。どこまで行くんですか?と尋ねると大宮の交通博物館まで行くんだってさ。お孫さんが鉄道が好きだから、だったら富士で東京まで行こうってことになったそうだ。そういうおじさんも昔は東京で働いていたそうだ。『昔はな、急行高千穂って汽車があって、通路にまで雑魚寝してしんどかったな・・・富士が出来たときはもう、うれしくて、うれしくて・・・・・これで寝ていけるってね。(笑)』と懐かしそうに語ってくれた。私も遠い未来。自分の子供くらいの世代に・・・・『昔はな、寝台列車というのがあって、列車ん中にベッドがついていたんだよ。いまでは考えられないけど、10時間以上もかけていたんだよ・・・・』なんて話す日が来るのだろうか。だが、この見知らぬ人同士が語り合うという寝台独特の空気が失われると思うと少し寂しい。★1月11日(日)朝、起きたら岡山の和気であった。はやっ。だからもう一度寝ておきたら名古屋だった。東海道線は長い。↑朝日の駿河湾(静岡県静岡市)そしてこの列車の名前でもある富士山が見えてきた・・・・・↑富士山私は伊豆の生まれである。富士山を見て育った。心の山、富士。この山を見ると帰ってきたと思い、日本に生まれたことを実感させる。そして、17時間の旅を終え富士は東京駅に着いた。もうあえて写真は撮らない・・・・思い出は心の中に。ありがとう富士。ほんとうにありがとう。そして、秋田新幹線でびゅーんと帰省。無事、成人式に参加できた。その後は羽越線が止まっていたので、伊丹へ飛行機で飛んだ。たったの一時間。当たり前っちゃ当たり前なんだけど旅情もへったくれもない。(・。・)そして高速バスで松山へ。鉄道、バス、船、車、飛行機・・・・・すべてを駆使した帰省であった。死ぬほど金はかかったけど、富士に乗れたことはよかったと思う。最期にyoutubeより・・・・・YouTube - 寝台特急 なは あかつき 上りラストラン さよなら放送去年の3月に廃止された寝台特急なは、あかつき号が最終日の京都駅到着アナウンスである。『高度経済成長中は会社員が利用し、集団就職で関西に就職した人にとってあかつきでの帰省は、故郷に錦を飾る誇らしいものであったと聞いています。私事ではありますが、約18年間新大阪西鹿児島間を運転のときよりなは号に常務いたしております。その間ちょうど今時分の頃、春の時期夢と希望に満ち溢れ関西などに就職いたします新社会人またあるいは就学のため故郷を離れる学生さんをホームで見送るご両親の涙を幾度か見たことがあります。また乗り合わせて初めて会った人同士が何時間も語り合うなど新幹線にも飛行機にもない寝台特急ならではの旅の醍醐味またはドラマがあったのではないかと思います。しかしイマの時代の流れによりまして私たちも大変寂しく悲しく思いますが、あと13分ほどで半世紀に渡り一時代を築いてまいりました、また走り続けてまいりました・・・なは、あかつき号は引退のときを迎えようとしております。イマまで、なは、あかつき号を愛してくださいましてありがとうございました。(車掌アナウンスより)』一つの時代が終わろうとしている。その瞬間に立ち会えたことが何よりも嬉しい。去年の五月、終電のなくなった岡山駅に一人ぽつんと残された私のもとへ富士、はやぶさはちゃんとやってきてくれた。この列車が廃止になってしまったら、私は夜遅くに実家に帰れない。今年はどういう一年になるのだろうか。まだまだ私の旅は終わらないと思う。終わり