カテゴリ:ヒストリー
和賀氏は奥州の名族である。本姓を多田といい、陸奥国和賀郡に居した豪族である。 民、百姓からは「和賀御所」と崇められていた。出羽仙北の本堂氏も和賀一族である。 和賀氏の隣国の稗貫(ひえぬき)氏の当主、広忠は和賀の出身であり、胆沢の柏山氏とは血縁関係にあった、和賀氏は連合すれば南部氏と肩を並べる勢力であった。 しかし、建保年間(1213年~1219年)からこの時に至るまでの370年間、北隣の南部氏との小競り合いを除いて和賀郡に戦とよべるものは存在しなかった。これが小田原不参陣の大きな理由でもあろう。 しかし、今回も戦と呼べる状況ではない。戦わずして領地を追われるのである。 奥州仕置後、南部信直は秀吉の奉行、浅野長政を同行してきて、軍勢を和賀に差し向けた。 時、同じくして奥州の名族、葛西氏も和賀氏と同じ道を歩もうとしていた。このときの葛西の主は葛西晴信であったが、小田原へ参陣できなかった理由が和賀氏の場合と少し違う。 葛西氏は広大な領土を領有しており、家臣団も領主が把握できないほど存在していた。このような状況で家臣団も巨大化した。家臣団同士の小競り合いや、主家への謀反、さらには隣国の宿敵、大崎氏との交戦など領内に多くの問題を抱えすぎた。 中でも1588年(天正十六年)に起こった、気仙(現・宮城県気仙沼市)地方の国人、浜田広綱の反乱が晴信の小田原行を阻む決定的な原因となっていた。 奥州仕置により、葛西の旧領は木村吉清に与えられた。木村とは本能寺の首謀者、明智光秀の旧臣であったものを秀吉が召抱えたものである。奥羽もなめられたものである、葛西氏の広大な耕土が領地を持ったこともないような者に委ねられたのである。 葛西晴信は城の明け渡しを拒絶した。仕置軍(伊達政宗、蒲生氏郷、木村吉清)は葛西本城、寺池城(現・宮城県登米市)を包囲し、攻撃した。 葛西晴信は燃え盛る炎の中で自刃した。 しかしながら、葛西氏の書状「葛西文書」は9割方が偽物であるという。このような大名家も珍しい。葛西氏の真相は闇の中である。 事実、この後自刃した後の葛西晴信は歴史に登場する。まさか自刃した人間が生き返るなどあるはずもない・・・・。 浅野長政を導引した、南部勢は一ノ関(現・岩手県一ノ関市)あたりまで北上。江刺、柏山といった諸国人は戦わずして四散。和賀の二子城においても同様に城から一族郎党、四散した。 そう、まさしくこの瞬間である。この瞬間から和賀氏や葛西氏の戦いが始まったのである。 南部氏はその後、稗貫広忠の居城、十八ヶ崎城を接収した。 ↑十八ヶ崎城(現・岩手県花巻市) 奉行、浅野長政は十八ヶ崎(とやがさき・現在の花巻城)に入城して諸将に号令した。水沢、岩屋堂、十八ヶ崎には、浅野の代官が入れられ、新体制への移行が進められた。 浅野長政、南部信直はその後、帰国した・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007/02/12 06:32:34 PM
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