カテゴリ:ヒストリー
小田原城は30万の諸将によって囲まれた。 さすがの伊達政宗も、家臣の片倉小十郎の命を捨てた諫言を受け入れて、小田原に馳せ参じて、秀吉に降伏。1590年(天正十八年)7月、北条氏政は豊臣秀吉に降伏。自刃した。 そんな頃、奥羽での事態は混乱していた。それぞれ昨日まで戦っていた者同士が手を握り合い、秀吉の命に従わなければならないような世の中が来ることなど一月前までは想像できなかったに違いない。 出羽方面はまだマシであった。海路を伝って京の情報を逐一得ることができたからだ。しかし、奥州の諸豪族は伊達政宗・南部信直というパイプラインを利用して情報を得るしか方法はなかったのである。その伊達、南部は小田原に参陣している。 陸奥国和賀郡を治める、和賀氏の二子城では軍議が行われていた。時にして1590年7月13日のことであった。 すでにこの時、小田原城は落ちて、秀吉は伊達政宗の先導のもと会津黒川(現・福島県会津若松市)に馳せ参じる中途にあった。 そうとも知らない、和賀の面々では小田原攻めに誰を出すかということで紛糾していた。この時の領主は和賀義忠であったが、若年のため、宿老にあたる鬼柳伊賀守が小田原に向かう事で決定していたのである。 しかし、この軍議の中に南部信直の間者が入り込んでいた。 「もう小田原攻めなど始まっており申す。今から参陣したといっても、和賀殿は上方勢に笑われてしまいますぞ。」 ↑現存当時から二子城にあった大手門(現・岩手県花巻市十八ヶ崎神社) この間者の讒言のせいで、和賀方は参陣の機を失ってしまった。軍議は延期になることに決まったのである。 この夜、ニ子城では重臣会議が開かれ、事態は紛糾した。 「もはや一刻の猶予もない!」 結局、家老にあたる小田島隼人が小田原行きを主張し、事態は収拾した。その後、酒宴が開かれたのであるが、鬼柳伊賀守はじめ、黒岩月齊、工藤主計といった重臣が腹痛を催し、全員その場に倒れてしまったのである。 多分、これも南部信直の差し金であろう。 結局、和賀義忠は秀吉のもとに馳せ参じることはできなかったのである。 このすぐ後、豊臣秀吉は黒川に入城。「奥州仕置(おうしゅうしおき)」を発令する。南部、秋田、最上、戸沢、小野寺、大浦らは所領を安堵され、伊達政宗は会津を召し上げられた。 奥羽に実力をもった、葛西、大崎は改易され、和賀、稗貫、田村、石川、白河らの諸将は所領を没収され改易されてしまった。 皮肉にも改易の憂き目にあったのは、南部、伊達を頼みとしていた奥州の豪族であった。 陸奥七郡は南部信直によって与えられた。その中には和賀郡や稗貫郡といった、陸中の諸豪族が治めてきた土地も入っていたのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007/02/11 06:08:34 PM
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