カテゴリ:ヒストリー
2005年9月から本名にて無明舎出版にて連載させていただいた月刊「僕のルーツ・中世への旅」は4月で最終回を迎えました。 まだ未公開の20回(最終号)を本日ネット初公開。長いですが興味ある方は付き合ってやってください。 ★僕のルーツ・中世への旅(第20回・旅の始まり) 長いこと連載を重ねてきた「僕のルーツ・中世への旅」であったが、まだまだ完璧といえるモノではない。古文書を読む知識や、専門知識や一般教養の点などでは先達には未だ及ばない。原稿は今回で終わりであるが、私の中世への旅は永遠に続いていくだろう。 2007年(平成十九年)3月28日、私は近畿地方を訪れた。秋田を出たのが24日だったので四日目にしての到達であった。畿内というのは北国、秋田からは遠い。普通だったら寝台列車や飛行機を使うのであろうが、貧乏高校生にそのようなお金はない。JRが発行している切符に「青春18きっぷ」というものがある。一枚11500円で五日間(又は五人)JR全線乗り放題である。とはいっても新幹線や特急に乗ることはできない。普通列車のみである。鈍行の長い長い旅。真っ黒の日本海を見つめて、上越国境の山を越えて大都会、東京へ。相模灘を左手に伊豆半島、そして名古屋から亀山、鈴鹿の山を越えて京都府笠置町に到着した。私が畿内を訪れるのは修学旅行以来、二度目であるが、もちろん笠置は初めてである。 「笠置(かさぎ)」というのは第4回でも触れたが、十五代「範武」が1331年(元弘元年)八月に戦死している地なのだ。どうやら範武はこの地で挙兵した後醍醐天皇の軍勢に加わって戦死した可能性がある。文書やネット上でしか見たことのない「笠置」という場所に私は降り立った。 笠置駅を貫く関西本線は非電化のローカル線だ。二両のディーゼル音が西へ消えていくと、辺りは静寂に包まれた。四方は山に囲まれた静かな山里である。もう少し季節が経てば、櫻が咲き乱れるという。笠置は「日本の桜百選」にも認定されている。 ↑笠置山への道程「大手橋」から関西本線の轍 ↑大手橋由来 ここから歩いて「笠置山」に向かった。時間も限られていたので「後醍醐天皇の行宮跡」のみ訪問することに決めていた。山道を数十分歩くと、正面に巨大な石碑が見え「行宮遺跡」と掲げられている。 ↑行宮遺跡(京都府笠置町笠置山) このスケールには圧倒されたのも事実だが、下を眺めると木津川沿いに生える笠置の山里が際立って美しく見えた。六百年以上前、ここにルーツがいたという事実は文書上でしか伺えない。だが、この景色と碧(みどり)だけは六百年前と変わらないような気がするのは私だけだろうか。 ↑笠置の里 ↑笠置山挙兵モニュメント(笠置駅前) 笠置を後にした私は兵庫県神戸市の湊川神社に向かった。湊川神社は神戸駅の北側に鎮座する神社であり、南朝の忠臣、楠木正成が祀られている。 ↑湊川神社(兵庫県神戸市) ↑モダンな神戸駅(兵庫県神戸市) 楠木正成については、以前に何回も触れているが、この地は楠木正成が足利尊氏と戦って戦死した地なのである。神戸という街も初めて来た街なのだが、港町というイメージが強い。潮風が心地よい。 私のルーツは後醍醐天皇の笠置挙兵後、南北朝時代の泥沼に身を投じて、後醍醐天皇の南朝、さらには合一後の「後南朝」にも属すことになったことが「諏訪家系類項」の家系考証資料から見てとれる。そしてこの資料には「加名生」という文字があまた登場するのである。当初、この意味が分からず、インターネットや文献による検索で詳細を知ることができたのである。これは「加名生(あのう)」と読み、南朝の行宮(あんぐう)が存在した地なのだそうだ。だが、現在は「賀名生(あのう)」という字を書くというのである。今回の旅の最終目的地は「賀名生」にしようと決めていた。しかしながら、賀名生には鉄道がない。五條駅からは奈良交通のバスに乗らなくてはならないのだ。 神戸を訪れた翌日、私は奈良交通のバスに乗っていた。親切な運転手の方から本数の少ないバス時刻を丁重に教えていただいた。「賀名生和田北口」というバス停に降り立った。ついに念願の「賀名生」にやってきたのである。天気は今にも降りだしそう。だが、そんな天気を忘れさせる光景が目に飛び込んできた。 ↑賀名生行宮跡(奈良県五條市) ↑皇居額縁 丹生川のほとりに樹齢90年と言われるしだれ桜が美しげに咲いている。背景には茅葺屋根の「賀名生皇居跡(堀家)」である。この堀家住宅が六百年以上前、南朝の行宮であったのだ。今まで日本各地の様々な場所を訪れたが、賀名生という場所は私にとって、それらの何処とも雰囲気の違う場所であった。感動のあまり、何というのだろうか言葉が出てこない。というよりも言葉を失ったという表現の方が適切かもしれない。 ↑賀名生の里 その後、私は堀家住宅に隣接している「賀名生の里・歴史民族資料館」にも足を運んだ。職員の方々はたいそう親切に応対してくれて次のバス時間まで、有意義な時間を過ごすことができた。日本各地から南朝に思いをはせる人や、研究者が「賀名生」を訪れるとのことである。この日に見学者は私只一人であった。職員の方から、山手の方に「北畠親房公墳墓」があると教えて頂いたので早速、行って見ることにした。北畠親房とは過去にも触れたが、南朝を支えた公卿のことである。「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」を著し、南朝の正当性を説いたことでも有名である。賀名生の里を見下ろす高台に位置する墳墓は想像にもまして簡素なものであった。 ↑北畠親房公墳墓(奈良県五條市賀名生) 「あの北畠親房の墓の前に私が立っている。」と、そう考えると歴史というのはとてつもなく身近なものに感じてくる。後醍醐天皇が吉野で崩御されたのが、1339年(暦応二年)のことであった。その後、後村上天皇が即位して賀名生に入られた。その当時、賀名生は「穴生(あのう)」と呼ばれていたそうであるが、1351年(正平六年)の「正平の一統(観応の擾乱の際、足利氏の南朝への降伏)」の際に「叶名生(かなふ)」と改められた。長い間の念願であった、南朝が正統であるという願いが叶ったからである。親房の亡くなったのは1354年(正平九年)のことであった。しかし、この頃には足利氏の室町幕府が勢いを取り戻し、南朝はすでに京を追われていた。この後、長慶天皇、後亀山天皇と続き1392年(明徳三年)に南北朝は合一して、長く続いた動乱に終わりをつげることになる。その後、後南朝とよばれる南朝の後胤たちが、蜂起する時代に私のルーツを巻き込まれていくことになるのだが、これについては以前触れているので割愛させていただく。 ↑私のルーツ、伊東祐親公銅像(静岡県伊東市伊東市役所) たった一冊の「諏訪家系類項」という書物によって私は「ルーツを探る」という壮大な夢を追うことができた。改めて述べておくが、私は歴史の真実というものは求めていない。無論、今まで取り上げた私の憶測などには、歴史的な信憑性はほとんど無く、自己満足に過ぎないのが現実である。今回は「中世」という時代のみの旅であったが、およそ一年八ヶ月に及ぶ長い長い「旅」をすることができた。「ルーツ」を追ってきた秋田県内に在住する高校生は今年度、大学入試を迎える。 完 参考文献 ・『諏訪家系類項』(諏訪兄弟会) ・『闇の歴史、後南朝』(森茂暁著・角川書店) ★いままでのバックナンバー ・第十九回「中世の終わり(三)」 ・第十八回「中世の終わり(ニ)」 ・第十七回「中世の終わり(一)」 ・第十六回「土着前」 ・第十五回「北奥羽の戦国時代・3」 ・第十四回「北奥羽の戦国時代・2」 ・第十三回「北奥羽の戦国時代・1」 ・第十ニ回「津軽」 ・第十一回「畿内大乱」 ・第十回「南部煎餅と南朝」 ・第九回「関東」 ・第八回「四散」 ・第七回「男山八幡」 ・第六回「顕家と義貞」 ・第五回「二つの朝廷」 ・第四回「鎌倉崩壊」 ・第三回「鎌倉への逆襲」 ・第二回「先祖調査の難しさ」 ・第一回「はじめに」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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