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カテゴリ:身体・感覚
あっちでいわれていることが、こっちでは違うことをいっている・・・、という場面や本などに出会うことは、普段よくあるのではないでしょうか?
えらい人(~教授)のようなひとの話すことや、書くことを参考にしよう、と思って、調べても「いったいどっち?」と思うことはないでしょうか? 一般人であるわたしにとって、「そうだったのか!」とうすうす思っていたことをはっきり書いてあったのが 「人間科学(養老猛司、筑摩書房)」でした。 『専門家の集合の短所をいうなら、総合性を欠くことであろう。具体的には、いつまで経っても専門家の集まりで止まる。なぜなら、専門分野とは、その分野の前提を当然として受け入れたところに成立するからである。前提を問うことは専門分野には入らない。』 とってもわかりやすいです。 前提として考えていることが違う人同士が話そうとすることは、違う文化のひとが話そうということで、極端にいうと、日本人とアメリカ人が話そうとするようなもの。 その際に必要なことは、互いの前提を共感しあうことですが、この文を読む限り、専門家同士が「共感しあう」ことはまず難しそうです。 前提を疑うようなひとは、その専門分野で出世することが非常に難しいそうなので、前提を疑わないことが、学者として生きていくために必要なことだとすれば、いたしかたないですね。 一般人としては、専門家同士が意見交換して、いろんな研究をひとつの過程として提示してもらいたいですが、現状では、自分でいろんな本を読み解いていくつもりでいるほうがよさそうです。 この本は、専門家として、「人間」をキーワードに広く「科学」していくことが必要ではないか、と提唱し、実際に彼の専門の「脳」をアプローチとしてさまざまな分野を語っています。 「脳」をアプローチとしていかに「人間科学」しているか、専門を横断して語っているか、がこの本の「肝」ですので、ぜひ、読んでお楽しみあれ! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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専門分野を疑うことは彼らの縦社会の利権を失うことを意味するから誤っていても認めない訳です。
地動説などの宗教、考古学など科学の入りずらい世界は顕著で弊害をおこすことがおおいです。 でも、それが人間の悲しい性ですか! (2004年12月26日 11時18分14秒)
専門分野というのは、それだけで「ひとつのコミュニティ」といった感じなのでしょうか。
どこでも新たな前提を問うということはなかなか難しいですが、たまに、異分野の専門家同士が良い対談をしている本などを見かけます。 そういう人もいると思えば、人間も捨てたものではないですね。 分野だけでなく、どういうスタンスで書かれているのか、話しているのかを知る力を磨いていきたいと思います。 (2004年12月27日 10時50分45秒)
ゆぱさんさん
>専門分野というのは、それだけで「ひとつのコミュニティ」といった感じなのでしょうか。 > >どこでも新たな前提を問うということはなかなか難しいですが、たまに、異分野の専門家同士が良い対談をしている本などを見かけます。 > >そういう人もいると思えば、人間も捨てたものではないですね。 > >分野だけでなく、どういうスタンスで書かれているのか、話しているのかを知る力を磨いていきたいと思います。 ----- 忙しかったため先日の続き・・・ 土曜日の「世界不思議発見」を見られたかわかりま せんが、その中で「与那国島」近くの海中に「城跡」そっくりな古代の遺跡と思われるものがありました。 琉球大学の地質学の木村教授が長年調査をおこない 沖縄に残る「城跡」と比較し直角に削れた岩などから「城跡」に間違いないと話しています。 映像を見ても「城跡」です。 ところが考古学者の見解は海流でできた「ただの岩の塊」とのことです。 沖縄本島の近くにも同様な「城跡」があります。 私の見解は地質学者に先を越されたものを「考古学者が認める訳にいかない」だと思います。 ゆばさんの見解は! と断定して増しちゃ (2004年12月28日 22時14分07秒) |
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