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「死」に意味を持たせるのは「物語」です。
一人の「死」が社会全体に大きな変化をもたらしたり、他の人を救うこともありますが、その出来事がどのように後の世につながっていくのかは、その出来事をどのような物語の中に組み込むことが出来るのかということで変わっていきます。 新しい命を産むと共に死を迎える生き物は少なくありません。 森の生き物たちの死は、大地に還り、新しい命を支える栄養となります。 春、夏と産まれ育った命が、秋に種や卵の中に受け継がれ、また来年の春に目覚めてくることもあります。 「死」は「永遠に続く命の物語」「自然の物語」の中の一過程に過ぎません。 そこには、「悲しみ」はありますが、それ自体は単なる雨が降るのと同じ自然現象であって、不吉なものでも、汚らわしいものでも、隠すべきものでもありません。 それを「汚らわしいもの」や「悲惨なもの」や「命の欠点」として隠そうとすることで、「命の大切さ」や「命の悲しさ」や、そして「自然の本質」が分からなくなってしまうのです。 自分自身の命の大切さも分からなくなります。 でも、現代人は「死は汚れていて、忌み嫌うべきもの」という物語の世界に生きています。 現代人のそのような物語は、また、「失敗を恐れる」「失敗を怖がる」という感性にも表れています。 そこが「死」や「失敗」が「終点」になってしまっているのです。そのため、失敗した時点で思考が停止してしまいます。 そして、その「失敗が意味すること」や「失敗が教えてくれること」を理解しようとしません。 その失敗から学ぼうともしません。 研究の世界でも、経営の世界でも、また何かの活動の世界でも、その世界で成功した人は皆「失敗から学ぶ能力」が高い人です。 潜在的にはその世界における高い才能を持っていたとしても、些細な失敗で挫折してしまうような人がその世界で成功するわけがないのです。 逆に、元々はそれほど高い才能を持っていなくても、失敗から学ぶことを繰り返すことが出来るのなら、才能はあっても諦めが早い人など簡単に追い抜いてしまうのです。 「失敗を恐れず、失敗から学ぶ能力」ほど、人が生きて行く時に必要になるものはないのです。それは仕事においても、勉強においても、子育てにおいても非常に大切な能力です。 でも今、子どもの生活環境の中に、その「失敗を恐れず、失敗から学ぶ能力」を育てる場がないのです。 学校も失敗を許してくれません。ただ評価するだけで失敗から学ぶ能力を育てようともしていません。 昔の子は、自然の中での仲間との遊びの場で、「失敗から学ぶ能力」を育てていましたが、今、そのような遊び環境を持っている子は少数です。 そのことが、生きることを困難にしているのです。 子育てのワークをしていても、「私は上の子の子育てに失敗しました」と平気で言うお母さんがいます。 「上の子は失敗したから、下の子は失敗しないようにしよう」ということで私の講座に来たのです。 でも、「失敗作」としてお母さんから見捨てられた子はどうなるのでしょうか。それに、そのような考え方では、下の子もちゃんと育たないと思います。 「失敗」は「あなたは今のままでいいのですか」という神さまからの問いかけでもあるのです。 自己肯定感が低くて苦しんでいる人も多いですが、その苦しみもまた「あなたは今のままでいいのですか」という問いかけです。 先に進むことが出来る可能性を、自分の未来を否定しているから苦しいのです。 そんな時、ただその失敗や苦しみを否定するだけでは何も解決しないのです。 「そこから何を学ぶことが出来たのか」、それが大事なんです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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