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(昨日からの続きです)
多くのお母さんが「自分を犠牲にして子どもを取るか」「子どもを犠牲にして自分を取るか」という二者選択の子育てをしています。 実際には、その両者の狭間で悩み苦しみながら子育てをしている人が一番多いと思いますが、割り切ってしまって「子どもを犠牲にして自分を取る子育て」を選択してしまっている人もいいます。 そのような子育ては簡単に「虐待」につながります。それが事件になることもありますが、ほとんどの場合は事件になりません。 でも、そういう子育てを受けていると、子どもが「人間として学ぶべきこと」を学ぶことが出来なくなるため、学力、集団行動、社会常識、人格などの点で様々な問題を抱えるようになってしまう可能性が高いです。 そしてそれはやがて、様々な形で親に返ってきます。子どもの社会的問題行動の責任を問われたり、子どもに裏切られたりもします。 その逆に、自分を犠牲にして一生懸命に子どもに合わせようとしている人もいます。そういうお母さんは周囲からは「いいお母さん」という評判を得ることが出来るでしょう。 でも、お母さんが子どもに合わせてばかりいると、子どもは、お手本や、目標や、乗り越えるべき課題と出会えなくなってしまうため、「自分が進むべき方向」や「自分が学ぶべきこと」が分からなくなります。 また、「成長する必要」も発生しないので、成長意欲も目覚めません。 そのようなお母さんは、「簡単で便利な機械」と同じです。 今の時代、色々な知識がなくても、自分の頭で考えることが出来なくても、ネットを使えば簡単に答えを得ることができます。 ニュースや情報も自分が知りたいことだけを検索することが出来ます。でもそれ故に、新しい出会いが生まれません。新しい出会いがなければ新しい可能性が目覚めることもありません。 そのような子育てを受けている子は、「自分しか存在していない世界」に生きているのと同じ状態になってしまうのです。 そのため、成長と共に「自分という檻」が強化され、次第にその檻から抜け出せなくなります。そして、檻の外にいる人を受け入れなくなります。 でも、一人ぼっちです。自分に自信を持つことも出来ません。 また、「自分とは異なった意見の他者」と対話することも、そのような他者と一緒に協力し合うことも出来なくなります。 自分を犠牲にして「子どもに合わせた子育て」をしている人は、この「簡単で便利な機械」と同じ事をしているのです。 そういう子育てを受けている子には「成長欲求」が目覚めないのです。要求さえすれば、自分が変わらなくても何でも与えられてしまうので、成長する必要」が生まれないからです。 世襲政治家や、お金持ちや権力者の家に生まれた子が自分中心的になったり世間知らずになってしまうのはそのためです。親が子どもに合わせなくても、周囲が子どもに合わせてくれてしまうのです。 だからそれを知っている人は、我が子が大人になる前に親の権威が通じない世界へ我が子を修行に出します。 でも実際には、「子どもを犠牲にする子育て」か「自分が犠牲になる子育てか」の間で揺れ動き、悩みながら子育てをしている人が一番多いのではないでしょうか。 でも、「誰も犠牲にしない、誰も犠牲にならない子育て」の方法だってあるはずなんです。 私は「共に成長する子育て」を目指せば、誰も犠牲にならずに子育てが出来るのではないかと思っているのです。 「誰かが犠牲になるような子育て」では、子どももお母さんも育たないのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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