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現代の子には「言葉を学ぶ場」がありません。
「いやそんなことないだろ、実際みんな言葉を話せるようになっているのだから」と思われるかも知れませんが、今、子ども達が学ぶことが出来ているのは「コミュニケーションツールとしての言葉」(他者と情報をやりとりするための言葉)だけです。 「論理的に考えるための言葉」も、その考えたことを「相手に伝えるための言葉」も学ぶことが出来ていません。 「相手の言葉を理解するための言葉」も、「自分の心と対話するための言葉」も学ぶことが出来ていません。 「想像し、創造し、自分の考えを実現するための言葉」も学ぶことが出来ていません。 2008年に、ノーベル物理学賞をもらった益川敏英博士は、記者会見で最初に「すみませんが、私は英語が話せません」と英語で言って、その後は、通訳付きの日本語で講演を行ったそうです。 実際、益川博士は英語を話すのが苦手だそうですが、それでももちろん読み書きは出来たはずです。そうでないと外国の文献を読んだり、自分の研究成果を世界に向けて発表できないからです。また、それが出来なければ外国の賞であるノーベル賞などもらえません。 私たちは「話し言葉」も「読み書きの言葉」も区別せずに、単に「言葉」と言ってしまいますが、実際にはその両者の間には大きな違いがあります。 その違いとは、「話し言葉」は「他者との対話」に使われるのに対して、「読み書きの言葉」は、「自分自身との対話」に使われるということです。 ですから、「話し言葉」には「現実的な他者」が必要ですが、「読み書きの言葉」には「現実的な他者」は必要ではありません。 私もこのブログは、一人でコンピュータと向き合って「自分との対話」で書いています。 読んで下さる人は、私の「自分との対話」を読むことで、ご自身の心の中にも何らかの「自分との対話」が生まれ、そこで気付きが生まれるのです。 そのため「文章」の場合は、同じ文章を読んでも読み手によってその解釈は様々になります。 でも、実際の会話の場合は、それほど解釈に差が出ません。そうでないと会話が成り立たないからです。 このように、「話し言葉」が伝わる原理と、「読み書きの言葉が伝わる原理」は全く異なるのです。 だから、「話せるけど読み書きできない人」もいれば、「話せないけど読み書きは出来る人」もいるのです。 そして、小学生ぐらいまでの子ども達は「自分との対話」が苦手です。 だから、言葉をペラペラ自由に話すことが出来る子ども達でも、基本的に読んだり書いたりすることは苦手です。(文字の読み書きは出来るのですが、言葉の読み書きが出来ないのです。) 特に、私の印象ではおしゃべりな子ほど、読んだり書いたりすることは苦手なような気がします。 おしゃべりな子は「自分との対話」が苦手な傾向があるからです。 ちなみに、この場合の「読み書きの能力」とは、「朗読の能力」のことでも、「文字を書く能力」のことでもありません。 学校ではそのような「読み書き」しか教えていませんが、それは単なる「技術」であって人間の本質とつながった「言葉」ではありません。 OCRは文字を読み取ります、読み上げソフトは文字を音声化します、プリンターは文字を正確に打ち出します。でも、OCRも、読み上げソフトも、プリンターも「言葉」を理解しているわけではありません。 「文字ではなく言葉を読み書きする能力」を育てるためには「自分と対話する能力」を育てる必要があるのです。「文字の読み書きの能力」はその後でいいのです。 そしてそれが、知的な能力の土台になっていくのです。 ペラペラ話せても、文字の読み書きが得意でも、「自分との対話」が苦手な人の言葉は薄っぺらいものです。 それなのに、日本の学校では「文字の読み書き」は教えても、「言葉の読み書き」は教えてくれません。 「言葉」を伝えるためには体験が必要になるからです。自分自身の体験があるから、他の人の体験を読んだり、話を聞いて理解できるのです。 自分自身の体験があるから、知識の羅列ではなく自分の言葉で文章を書いたり、話したりすることが出来るのです。 自然の中で遊んだ体験があるから自然について書かれた言葉を理解したり、自分の言葉で自然について語ることが出来るのです。 そういう体験がない子は「文字」は読めても「言葉」が読めないのです。 でも、多くのお母さん達が「文字の読み書き」は教えますが、「言葉」を教えようとはしていません。 知識はいっぱい与えても、色々な体験はさせません。 だから、子ども達の言葉が、そして日本人の言葉がどんどん薄っぺらくなってきてしまっているのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.04.30 09:03:05
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