「アート」と聞くと「高尚で難しいこと」「自分には関係ないこと」と感じてしまう人が多いですが、実は「アート」は生活に密着した身近なことなんです。
日本人は「アート=芸術」と訳します。そして「芸術」とは
芸術またはアートとは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動を表す。文芸、美術、音楽、演劇・映画などが、芸術の諸分野である。旧字体では藝術。(ウィキペディア)
と理解されています。
でも、「アートの」本来の英語的な意味は「goo辞書」に
(自然に対する)人為,人工(⇔nature)(◆人間の巧みな技が加わっていること);(ふるまいなどの)不自然さ,作為
nature and art
自然と人為
と書かれているように、本来、活動としてのアート(芸術的行為)はもっと広範囲なものなんです。
自分の感覚で感じ自分の頭で考えたことを、自分の意志で、自分のからだを使って表現する活動全般が「アート」(芸術的行為)なんです。
だから「お料理」も、「日常的な手仕事」も、「家事」も、「仕事」も、自分が主体的に感じ、考え、活動しているのならアートなんです。
主体的に子育てをしているのなら、子育ても「アート」なんです。
「アート」が「芸術」と訳され、「身近なもの」から「高尚なもの」になったのは、欧米の文化や芸術品に対するあこがれをその言葉に込めたからなのでしょう。
「スポーツ」という概念も同じです。
その欧米で芸術は「鑑賞や娯楽の対象」として発達してきました。スポーツもまた「鑑賞や娯楽の対象」として発達してきました。
だから「芸術」や「スポーツ」という分野や概念がはっきりと確立されていたのです。
でも、それ以前の日本には「芸術」という概念や、芸術家という職業もありませんでした。
「アート」はあったのですが、「鑑賞や娯楽の対象」としての芸術がなかったのです。
「スポーツ」というジャンルも、考え方もありませんでした。
今、美術館に飾ってあるような素晴らしい芸術品を作った人たちでも、昔は「芸術家」ではなく「職人」として扱われていたのです。
その「職人」は「鑑賞するものを作る人」ではなく、「生活の中で使うものを作る人」でした。
床の間などに飾る掛け軸も、「床の間」という空間の一部として作られたのであって、美術館や博物館で鑑賞するために作られたものではありません。
今は芸術品として扱われている俵屋宗達が描いた「風神雷神図屏風」も、「観賞用の絵画」として描かれたものではなく、「生活の中で使う屏風の絵」として描かれたものです。
明治以前の日本にも現代人の感覚から見たら素晴らしい芸術品がいっぱいあったのですが、当時の日本人いとっては、それは「生活の中で使うもの」に過ぎなかったのです。
欧米から来たのが「芸術」であって、昔から日本にあったものは「生活の一部」であって「芸術」ではなかったのです。
そのため、明治になって人々の生活が欧米化し生活の形が変化するに従って、それまで「生活の中で使われていたもの」は必要がなくなり、大量に廃棄されました。
絵画だけでなく、各種工芸品や仏像までも大量に廃棄されました。
欧米で浮世絵ブームが起こったのは、日本の商人が欧米に品物を送るときに、その品物を保護するための詰め物として浮世絵を丸めて突っ込んだからです。
ちなみに、欧米から日本に送られてきたものの詰め物に使われていたのが「クローバー」(シロツメクサ・詰草)です。
でも、日本人は「自分たちが使っていたもの」の芸術的な価値を知りませんでしたが、欧米の人には日本は素晴らしい芸術に満ちた国だったのです。
それで、二束三文でバンバン買いあさりました。そういうものが現在欧米の美術館に飾られています。
そんな状態を見て柳宗悦という人が「これはまずい、日本の宝がドンドン壊されたり海外に流れてしまっている。なんとかしなければ。」と、「民芸」という概念を創り出し、そういうものの価値を訴え、守ろうとしたのです。
現代人は誇らしげに日本の美術品の素晴らしさを自慢しますが、でも、それは外国で評価されたから自慢できるようになっただけであって、自分でその価値を知っていたわけではないのです。
日本ではよく見られる評価の逆輸入です。自分に自信がない日本人は、欧米で評価されるまで、それが「価値があるものだ」ということに気づかないのです。
人は、「自分の生活の近くにあるもの」の価値になかなか気づかないものなんです。これは欧米の人でも同じです。
でも欧米では、芸術もスポーツも「鑑賞する」という形で生活から切り離すことで、「特別なもの」としての社会的な価値を創り出しました。
子ども達が広場で勝手にボールを蹴って遊んでいても、そこには社会的価値はありません。
でも、ルールを決め、勝ち負けを競わせ、多くの人に見せるような形にすることで「社会的な価値」が生まれ、「スポーツ」として扱われるようになったのです。
でも、スポーツが専門化するにつれて、勝ち負けを競うことだけが目的になり、「楽しむ」という「遊び」としての要素は消えてしまいました。お金儲けの手段としてスポーツを選ぶ子もいます。
その結果、元々は「遊び」という「子どもの心とからだの育ちを支えるための活動」として始まったものが、逆に「子どもの心とからだの育ちに強い負荷を与える活動」になってしまったのです。
でも、一流の選手になることが出来るのは「お金のため」や「勝ち負けのため」ではなく、「とにかく、それをやっている時が一番楽しい」と感じることが出来る人だけです。
様々な芸術的な活動でも同じです。「素敵な作品を創ろう」としている人ではなく、「絵を描いているのが楽しい」「踊っているのが楽しい」「作っているのが楽しい」という人が、人の心を打つ作品や表現を創り出すことが出来るのです。
勉強もまた同じです。「成績を上げるために勉強する子」ではなく「勉強することが楽しい子」が本当に身につく学びをすることが出来るのです。
そして、子ども達が「楽しい」と出会い、子ども達の「楽しいを発見し創り出す能力」を育ててくれるのが、「遊び」という活動なんです。
大人達は「遊び」には「遊び方」があると思い込んでいますが。「遊び」に必要なのは「遊び方」ではなく「楽しいを発見し創り出す能力」なんです。
これがあればいくらでも自由に遊びを創り出すことが出来るのですから。
そしてこの能力が育っている子は勉強すら遊びに変えることが出来るのです。
そして、「楽しいを発見し創り出す能力」が「アート」を生み出す源泉でもあるのです。
というか「子ども達の自由な遊び」はそのまま「アート」なんです。
「楽しい子育て」をしている人はアーティストなんです。
「楽しい授業」をしている先生も「アーティスト」です。