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一般的に、「教育」には「個人のため」と「社会のため」という二つの側面があります。
戦争中の教育は「社会のため」という側面が重視されました。 今でも、国や学校は「社会のため」という要素が強い教育を行っています。だから国が教育内容を決めているのです。 でも、親や子どもが求めているのは「個人のため」の教育です。子どもが幸せに生きることが出来るようになるための教育です。社会を軽視しているわけではなく「社会があるから個がある」のではなく「個があるから社会がある」ということなのでしょう。 「夢みる小学校」などで描かれているのは「社会に合わせた教育」ではなく、「子ども一人一人に合わせた教育」です。そういう教育では大人の介入は最小限に抑えられています。 大人は「教える人」ではなく、「環境ときっかけを与え、子どもの傍にいて見守る人」です。 それは農業で野菜などを育てるのと似たような方法です。 森の幼稚園などでも「大人は見守るだけ」という姿勢のところが多いような気がします。 そして今、そういう教育を求めている人が増えています。「国のため」、「社会のため」という言葉に反発を感じる人も多いです。その言葉でひどい目に遭ってきた記憶が残っているからなのでしょう。 でも本来、教育には「個人のため」や「社会のため」だけでなく、もう一つ非常に大きな役割があったのです。ただ、今ではその「もう一つの役割」を大切にしている人も少ないので、「あった」と過去形にしていますが、それは太古の昔からつい最近まで人々が大切にしてきた教育の形です。 それは、親から子へ、大人から子どもへと何世代にも亘って受け継がれてきた「言葉や、技術や、精神性や、物語や、歌や、踊りや、料理や、人と人との関わり方や、様々な生活文化を伝えるための教育」です。太古の昔から続いてきたそれらの伝承に支えられて、私たちの「今」があるわけです。またその「伝承」を共有することで、人と人がつながることも出来ていました。 「仲間である」ということは「目的を共有している」というだけでなく、「伝承を共有している」ということでもあったのです。そして、この伝承を大切にしてこなかった部族や民族は存在しないと思います。 でも、急激な科学技術の進歩によって生活の形は急激に変わってしまいました。生きていくために必要な知識や技術も大きく変わってしまいました。必然的に、「伝承」という形での教育は「無駄なもの」であるだけでなく、「時代遅れで時代の進歩を阻害する有害なもの」として考える人までいます。 そして今では、親と子ですらもう話が合いません。孫と祖父母などでは共通の話題をさがすことが困難でしょう。 今の日本では、三世代が一緒に歌える歌も、一緒に踊れる踊りも、一緒に楽しめる遊びも、みんなで共有できる物語も消えたのです。それどころか、世代が違うと使っている「言葉」すら違います。 昔の人は「温故知新」などと言いましたが、今では一昔前の考え方や、技術や、知識は役に立たなくなってしまっているのです。 昔は老人に知恵を求める人も多かったでしょうが、今では老人に「今を生きるための知恵」を求める人は多くないでしょう。今の時代、非効率的な老人には社会的な価値がないのです。老人達もそのことを自覚しているので自虐的になっています。 でも、「社会のための教育」という考え方も、「個人のための教育」という考え方も、歴史の流れからは切り離されてしまっています。そのため、人類が迷子になり始めているような気がするのです。 その状態から軌道修正をするためには、何世代にも亘って伝承されてきたものの価値を再発見し、現代流にアレンジし、また未来へと残していけるように子ども達に返していく必要を感じるのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.02.14 09:06:33
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