「自分探しは無意味ですよ」(自分が自分の人生の主人公なんですから)
人生は「旅」や「物語」に例えられます。そして、実際に、人の人生は物語として語られます。自分の過去を語る時も物語のように語ります。科学を語るようには語ることが出来ません。そして、人生が一つの「物語」だとすると、“よりよい生き方”というものは、“よりよい物語の紡ぎ方”ということになりませんか。人は誰でも幸せにつながる物語を夢見て生きているのですから。子どもと遊ぶのも、子どもに勉強をさせるのも、子どもを叱るのも、また自分が仕事をするのも、遊ぶのも、学ぶのもみな、未来に対して「より良い物語」を期待しているからなのでしょう。でも、どうも色々な人を見ているとその物語の紡ぎ方が下手な人と、上手な人がいるように感じるのです。物語の紡ぎ方が下手な人はすぐ魔女やオオカミの誘いに引っかかってしまいます。そして、自分の人生(物語)なのに魔女やオオカミが主人公になってしまって自分は脇役になって不幸な運命をたどることになります。昔話ではそこで王子様や狩人が現れて助けてくれてハッピーエンドになるのですが、現実の物語ではそんなうまい話は滅多にありません。ほとんどの場合が、オオカミに食い殺されるか、悪者に捕らえられるか、もしくは魔法使いに自分以外の生き物に変えられてそこで物語が終わってしまのです。また、王子様が自分を捜しに来てくれることを願ってただひたすら何にもしないで待っているだけの人もいます。でも、それでは話しが先に進みません。また、宝の壺がどこかに埋まっているのではないかとひたすら穴掘りだけして物語が終わってしまう人もいます。でも、いずれにしてもそれでは“めでたし めでたし”で終わる幸せな物語を紡ぐことは出来ません。じゃあ、物語を紡ぐのが下手な人と上手な人とでは何が違うのでしょうか。時々、“自分探し”をしている人がいます。「自分探し」をしている人は、実際に今「自分が生きている物語」を認めたくないのでしょう。そして、「これは私の物語ではない、私の本当の物語はきっとよそにあるはずだ」と思いこんでいるのでしょう。でも、だからといって人間は現実に今生きているたった一つの物語の中でしか生きることができないのです。今生きている物語がどんなに辛く、悲しくても、その延長にしか「自分の物語」は存在していないのです。それを受けいれずに他の物語を探すということは、主役が物語を進めることを放棄してしまうということに他なりません。舞台の上の主役がもう幕が上がっているのに、「私は何の役なの教えて」と聞いて回ったり、「私はこんな物語やりたくない」と舞台の上で何もしないでうずくまってしまうようなものです。でも、そうすると、悪い魔女やオオカミが勝手に主役になって話しを進めてしまうのです。あなたが主役を演じる気があろうとなかろうと、物語は時間の流れと同じで決して止まることがないからです。実は、“自分”は探すものではないのです。もうすでに物語が進行しているのに、主役が物語を探してウロウロしていたらいつまで経っても前に進むことが出来ません。そうではなく、主役であるあなたが前に進めば物語は自然につながっていくのです。そして、あなたの物語が紡がれていけば、結果として“自分”が現れてくるのです。自分探しをしている多くの人にとって自分を探している理由は“自分がやりたいことが見つからない”ということなのではないでしょうか。自分がやりたいことの中に自分が存在していると思っているのでしょう。でも、それがない。つまり、自分がない。だから探している・・・。これは多分、現代人特有の感覚だろうと思います。幼稚園の時には小学校のために備え、小学校の時には中学校のために備え、中学校の時には高校のために備え、高校の時には大学のために備え、大学の時には・・・・、あれ? 何のために備えていたんだっけ?自分は何をやりたくて一生懸命勉強して頑張っていたんだっけ?それで、今度はその目的を探して一生を費やす。つまらない物語ですよね。私は、子ども時代にしっかりと子どもであることを楽しんだ人が、大人になって大人であることを、そして自分の人生を楽しむことが出来るのだと思っています。でも今、子ども時代に子どもであることを楽しんでいる子どもはあまりいません。子どもが子どもらしく生きることが難しい世の中なんでしょう。また、自分探しをしている人には、子どもの子どもらしい姿が分かりません。どうか、子どもが子どもであることを認めてあげて下さい。そして、子どもが子どもであることを楽しめる毎日を過ごさせてあげて下さい。そして、その子どもの楽しさを共有して一緒に楽しんで下さい。子どもと共に今を生きることの楽しさ、素晴らしさを感じてみて下さい。そうすると、「自分探し」がいかに無駄なことであるのか分かると思います。