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テーマ:心に残る歌(10)
カテゴリ:昭和の残像
☆ 「僕は路地のみかん箱の上で歌っていたい」といっていた庶民派のバタヤン、 そんなバタヤンの『かえり船』をあの藤本義一さんは生涯のベスト歌謡曲の一位にあげておられた。 そして、大作曲家であった古賀正男氏は「バタヤンの声には涙がある」と絶賛したそうである。 ☆ 田端さんは3歳の時に父が他界。8歳の時、長兄のもとに移り住むが、その兄が蒸発。おからとおかゆしか食べられない極貧生活のために栄養失調となり、トラホームで右目の視力を失った。 13歳になると名古屋で薬屋、パン屋、鉄工所と職替えしながら丁稚奉公を始める。もともと歌好きな少年だったが、16歳の時、ベニヤ板をギターの形に切ったものを作り、独学でギターの弾き方を学び始めたそうである。 戦後間もない頃、バタヤンが大阪駅のプラットホームに立っていると、復員兵を乗せた列車が入ってきた。ボロボロになった彼らの姿をバタヤンが痛ましく眺めていると、その時、なんと駅のスピーカーから自分が歌った「かえり船」が流れてきた。 兵達達はジッと耳を傾け、涙を流している者さへあった。その光景にバタヤンは大感激したそうだ。 ☆ 帰還兵の方ではないが、異国の地で苦労されたこんな話も聞くと、なんだか胸が熱くなってくる。 ブラジル公演の思い出2006 田端義夫 帰りの飛行機で、(位牌を抱いている)おばあさんが乗っていた。何十年ぶりかで帰る、『お父さん、帰ろうよ』、『うん、もう一年たったら』、そしてもう一年たった『お父さん、帰ろうよ』、『うん、もう一年たったら』、そして、お父さんは亡くなってしまった。おばあさんは、位牌を抱いて、日本に着くちょっと手前で、『お父さん、日本だよ』と... 私はブラジルではありませんが、南米に住んでおります。日々を暮らすうちに12年が過ぎてしまいました。このお話は本当に良く判ります。もう帰ろう、でももう一年、もう一月、で12年が過ぎました。以前はブラジルにもおりましたので、何人か戦前移民の方も存じ上げております。この方達のご苦労は、本当に凄まじいの一言です。しかし、その苦労話を笑い飛ばしてしまう方々でもあります。でも、後で気づきました。笑い話にするしか無いのです。悲しいことがあって涙を流せるのは、ある意味幸せなのです。そして、このお話に出てくる方々のおかげで今の我々があります。感謝に堪えません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013年05月02日 22時23分51秒
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