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カテゴリ:◎2次裏書
「pet」という、人の心に侵入して「鍵」をかけたり、「幸せな記憶」をすりかえたり、「忘れてること」を思い出させるためにそれを思い出す「条件」を探したりする話がある。
最近私はこの「鍵」を自分に作っているのかなと思う。 鍵がないと駄目だ、不安定なままだから。 鍵をかけないと安心して外へは出られない。 鍵は少なければ少ないほどいい。 昔の私は一時期鍵をじゃらじゃらさせていた。 とてもちゃちな錠が、沢山の引き出しをそれぞれ締めていた。 引き出しはふいにトラウマの圧力で飛び出して、私はふいにうずくまって泣いてしまうことがあった。 忘れろ忘れろとまた自分に暗示をかけて、引き出しに押し込んで新しいちゃちな錠をつける。その繰り返し。 このままじゃいけないと思った。 だから私は鍵を統一した。とても頑丈な錠一つに統一した。 私は小さい頃親が錠だったけれど、それが崩壊したからちゃちな錠を沢山となった。 常識や挫折という鍵が、親の錠を軒並みぶち破ってしまったから、頑丈な錠を作る当てがなかったから、 上のようなちゃちな錠を沢山作ってしまっていた小学生から中学生の期間。 私は酷く不安定だったと思う。 けれどやっと今、あの子を錠にしていることで安定できている。 不安定な親の経路で嵐が来るのは嫌だけど あの子の経路で来ることはめったにないと思うし、 そして来たとしたら私がよっぽどの駄目な奴だってことだから目茶目茶になったとしてもむしろそれはよいことかもしれない。 と、思いたい。思いたい…思いたい…うー…思えないことがたまにあったりしなくもなくもない…それは過剰期待なのかもしれない…それでもなんか…うー…… 毎日毎日私は錠に縋っている。沢山の錠を一つの鍵で開けている。だからもう鍵がぼろぼろなのかもしれない。 あの子に接触する時に新しい鍵を貰えたり、あるいは補修してもらえればいいけれど、 もしかしたら削れてしまうかもしれないという不安も増えてきてしまった。 それでも他に錠と鍵はない。 こんな丈夫で立派な錠にはもう巡り合えないかもしれない。 こんなまともに見える、少なくとも他の強迫観念よりはよっぽど美しく見える「あの子を信じるということへの半永久的な盲信」という鍵にはもう巡り合えないかもしれない。 お菓子と考えたい。あの子は主食じゃなくておやつなんだと考えたい。 それでもできない。 自分を鍵にするのはとてもリスキーな行為だと判っている。 だからあの子を鍵にしている。 でもこれももしかしたら危ういのだろうか。 分からない。分からない。不安だ、怖い。 そうしてそうやって分からないと思う度に困ったと思うたびにa助けてと言うことで心を落ち着ける。不安に錠を付ける鍵をかける。そうすることがもう習慣になってしまっている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.02.16 23:03:28
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