テーマ:野球のトリビア(237)
カテゴリ:蹴球
千葉マリンに行くと、いつも思うこと。
遠くて肌寒い。 しかし、試合には勝つ。 この日も例外ではなかった。 球場は相変わらず遠く、 東京の連続真夏日記録も途絶えた。 そして、ロッテ戦の勝ち越しも決めた。 Bw 040 001 022 9 M 003 000 000 3 試合の見所は以下の通りだ。 ○ 伊原イズム炸裂の重盗による追加点。 ○ 早川のダイビングキャッチ。 ○ 爆乳キラー・後藤の今季初本塁打。 ○ 不振の本柳に2ヶ月ぶりの白星。 ○ 日曜日の連敗が13でストップ。 う~ん、勝ったのは嬉しいのだが、 今は高校野球の方が面白いなァ。 早川の美技も良かったけど、翌日、 済美(愛媛)の選手(甘井と鵜久森)は、 同じようなプレーを3度も披露していたし。 そんなことよりも。 印象的だったのは、むしろ観客の反応である。 両翼のスタンドには「合併反対」の横断幕。 球場を出てからも、署名を呼びかける声が聞こえた。 そんな光景を見て、ふと思う。 ファンに出来ることって、この程度なのか? もっと他の策はないものだろうか。 いくら署名を集めたところで、 あの老人どもが意見を翻すものか。 12色のミサンガを買ったところで、 願いなんか叶うものか。 というか、あんな頑丈そうなミサンガ、 切れっこないって。テリーマンの靴紐じゃないんだし。 そもそも、金なんか取るなよ、選手会……。 世の中には、こんな話がある。 チャールトン・アスレチックFC。 ロンドン南東部に位置するこの街には、 世界一の行動力を持つサポーターたちが住んでいる。 今、この話を読んで、皆さんは何を感じるだろうか。 彼らのこれまでを年表形式でまとめてみた。 <1919年> チャールトンの初代本拠地「ザ・ヴァレー」が完成。 建設用地は、スタジアムを作るのには不向きな 廃坑だったが、サポーターたちが自ら地面を掘り、 見事に築き上げた。 <1950年代> 1947年のFAカップで優勝して以降、 チャールトンは昇格と降格をひたすら繰り返すような 浮き沈みの激しいチームとなった。それゆえ、 次第に資金とファンは減っていった。 <1982~1985年> 大枚を叩き、デンマークのアラン・シモンセンを獲得。 欧州最優秀選手に2度も輝くほどのストライカーに サポーターは大いに期待したが、結局は不発。 莫大な契約金による負担だけが、クラブには残された。 負債は増えるわ、観客は減るわ、訴訟は起こされるわ。 もはや、チャールトンは再起不能の状態だった。 そんな事態に立ち上がったのが、サポーターたちだ。 彼らは連合を組み、クラブを買い取って危機を救った。 1985年には、新たな衝撃がクラブを襲った。 国内ではスタジアムの安全基準が大幅に見直しとなり、 全てのクラブが本拠地の改装を行わなければ ならなくなったのだ。 ここで問題となったのは、ザ・ヴァレーの所有権だ。 実のところ、サポーター連合は、 スタジアムまでは買い取れなかったのだ。 チャールトンは、住み慣れた家を放り出された。 <1988~1991年> 他球場を間借りすること3年。 遂にクラブの所有権とザ・ヴァレーの所有権が統合された。 そこで、ファンたちは朽ち果てたかつての本拠地に集まり、 スタジアムの整備に勤しんだ。 しかし、その行為も結局は骨折り損に終わった。 ザ・ヴァレーのガタつき様は、あまりに重傷だったのだ。 それでも、彼らは諦めなかった。 修復が無理なら、建て直せばいいじゃないか。 ということで「ザ・ニュー・ヴァレー」の建設を提案。 地元の議会はこれを承認しなかったが、 彼らは「ヴァレー党」なる政党を組織し、 不認可を覆そうとした。 チャールトンを再びザ・ヴァレーへ。 ヴァレー党は、新スタジアム建設に賛成だった2人を除く、 60議席全てに対して候補を立てた。 サッカーのファン集団が政治活動を行う。 そんな話が、本当にまかり通るのか。 ……まかり通っちゃったのよ。 ヴァレー党はなんと、10.9%もの投票を獲得。 1991年4月2日には、圧倒的多数でザ・ヴァレーの 再建が承認されたのだった。 ……。 サッカーと野球の違いはある。 イングランドと日本とでは文化も違う。 だが、それでも我々は考えなくてはならない。 行動せよ。 合併が嫌なら、それを訴えるだけではダメだ。 もっと、人々の心に響くような行動を起こさねば。 具体案も提示せず、無責任な意見だとは思うのだが、 いかがだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|
|