38年前の宮本顕治さんの言葉
友人Gさんの本棚にあった、宮本顕治評論集を借りてきた。文芸評論集で、読みこなすには、 小生には全く歯が立たない読み物。ただ、あとがきの一文に魅せられた。38年前 1980年10月 …往時をかえりみつつ、一個の感慨を抑ええない。私は…環境の貧しさの体験の中で青年時代に社会の矛盾の根源の解決の道を科学的社会主義、共産主義に発見し、文芸評論もその立場から書こうとした。 そして、理論と実践の統一という真理に忠実であろうとして、日本共産党に入党した。いわゆる「政治家」になる意識はいっさいなかった。しかし、日本の革命運動そのものの若さの中で、未熟な若年者でありながら、いつの間にか、革命運動の重要な部署に立たされることになった。私は戦後、当時はちょうどせいぜい中隊長クラスのものが、師団かあるいは全軍の指揮をやらされたようなものだといったが、これは単なる冗談ではなかった。自分で希望したものではないが、運命のめぐりごとによって、私自身まだ満25歳ぐらいではからずも歴史の重責を負わされ、悪戦苦闘したというのが、いつわらざる心境であった。しかし、それでも日本共産党員の道を選んだ大義を、どんな迫害の中でも貫こうという原点を、獄中でも保ちつづけることができた。「『敗北』の文学」の結びの言葉ー「『敗北』の文学ーそしてその階級的土壌を我々は踏み越えて往かねばならない」という言葉を、自分は実践することができたと、獄中の日々のある日、心の中でつぶやいたことを、今も記憶している。しかし、新しい道に横たわった現実の複雑なきびしさは、「『敗北』の文学」を書いた当時でもとても予想できないものだった。とくに、日本共産党が公然と活動できる日が来たらと獄中で日夜思いつづけたその時期が開けた戦後になって、私たちが共産党員として遭遇した内外の諸経験・諸事件が、こんなに複雑多岐で困難に満ちたものであることは、獄中での私のどんな想像力をもまったく絶するものであったことも、今日の私の実感である。同時に、勝利の日にはまだ遠い解放闘争の前身の個々の局面でも、戦前想像もできなかった大衆的規模での共同の成果を分かち合える日が、その中にちりばめられていることは、望外の喜びとすべきだろう。いま、消費税、原発、TPP,オスプレイなど、一点での共同が、まさに燎原の火のように広がっている。…共同の成果がちりばめられている…新しい道に横たわった現実の複雑なきびしさも、乗り越えて道切り開く諸条件はある。