カテゴリ:本の感想(さ行の作家)
島田荘司『ら抜き言葉殺人事件』 ~光文社文庫、1994年~ マンションの一室で、日本語教師にしてピアノ教師である笹森恭子が首を吊って死んでいた。笹森はまっすぐな性格で、しかし厳しく刺々しいところがあった。彼女を知る人々は、自殺するような人ではないと口をそろえて言う。 吉敷竹史は、この事件を担当することになった。 時を同じくして、別の女性が飛び降り自殺をした。二人をつなぐ人物として、笹森周辺を調べていた吉敷たちは、作家の因幡沼耕作にたどりついていた。笹森は因幡沼に対して、その作中に使われた「ら抜き言葉」に対する痛烈な批判の手紙を送り、これに対して因幡沼が反論したため、二人の中では激しいやりとりがあったのである。そして、飛び降り自殺の女性は、因幡沼の熱烈なファンだった。 その因幡沼が殺されていた。二人目の女性の死の知らせを受けた直後、吉敷たちはそれを知る。笹森が因幡沼を殺し、そのあげく自殺、女性は因幡沼の死を嘆いて自殺した、という構図が、捜査の中では一般的な構図と考えられた。 しかし、なぜ「ら抜き言葉」なのか。先のように考えられた事件の構図に釈然としない吉敷は、笹森の過去を調べていく。 吉敷さんシリーズの長編を読むのは、これで二冊目になります。御手洗さんシリーズが、多少極端に言って、風変わりな事件→御手洗さんの思考をぼかした調査の過程 →意外な真相→その真相に至る御手洗さんの思考の解説、という構造だとすれば、吉敷さんシリーズは、(風変わりな事件)→吉敷さんの思考の過程も描きながらの調査の過程 →意外な真相、という構造だといえると思います(吉敷さんシリーズは二冊しか読んでいませんが…)。いわゆる探偵役の思考を追いながら読む感覚ですね(特に何も見ずに記事を書いていますが、解説かなにかで同じようなことが書かれていればすみません。少なくとも本書の解説では、それぞれのシリーズの叙述の構造についてはふれられていないはずです)。本書には大がかりなトリックがあるわけではありませんが、まさにその思考の展開、吉敷さんの捜査の展開自体が面白いです。 そして本書の読後感ですが、気持ち悪さ、ある種のいたたまれなさが残ります。笹森さんがなぜ「ら抜き言葉」に激しいこだわりを持ち、ら抜き言葉を使う人々には生きる資格がないというくらいの勢いでそういう人々を批判するのか。一つの答えは明かされます。しかしでは、(以下反転)なぜそのきっかけとなった国語の教師は、「ら抜き言葉」にだけこだわったのか。教師としての威厳をたもつため、なんでもよかった、ということではあるのでしょう。それこそが、本書の一つの主題である権力をめぐる歪さにつながっているのだと思います(反転ここまで)。 タイトル通り、「ら抜き言葉」が一つのメインテーマであり(これはその裏にある、日本語の構造、さらには日本人の思考スタイル、権力維持のありかたにつながっていくのですが)、そのため日本語の文法について詳しくふれられています。笹森さんの感情的な意見と因幡沼さんの(比較的)冷静な意見では、やはり後者に説得力を感じるのですが、二人の議論が興味深いです。そして文法について詳しく書かれているせいで、本書を読む中で文法が気になってしまうのがトラップですね(笑)。文法の話あたりでなるたけ気にしないようにしましたが、そのあとはいつも通り文法には気にせず読みました。 本書に登場する学校は、ことなかれ主義を地で行く学校で、読んでいていらいらしました。もっとも、自分にもことなかれ主義的な考え方がないとはいえないので、そういう態勢に一方的に批判ばかりするのはフェアではありませんが、やはりいらいら…。島田さんは、そういう権力を、すごく単純明快にむかむかする存在として描いていらっしゃる気がします(御手洗さんが小馬鹿にしている警察などもそうですね)。 で、話を戻しますが、気持ち悪さ、いたたまれなさというのは、そういう、日本人のあり方の歪さが描かれているから感じるのだと思います。ら抜き言葉は、それを描くための一つの手段かなと思いました。それこそ、因幡沼先生が指摘している他の文法ミスでも、お辞儀の仕方でも、なんでもよいのだと思います。ですが、『ら抜き言葉殺人事件』というタイトルは、それだけでわくわくしますし、どうして笹森さんがそんなにら抜き言葉にこだわるのか、というのは魅力的な謎でした。 * 岡山から神奈川県小田原に向かう途中に読了しました。今日はもう眠いので、旅行のことや、東京から岡山に帰る間に読んだ米沢穂信さんの『氷菓』の感想は、また後日…。 注)この記事は8月20日に書き、21日に一部修正しました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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